亜細亜大観/15
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蘆口橋 (北支)
昭和十二年七月七日支那官兵は、蘆口橋附近にある日本軍に向つて發砲した。これか即ち支那事變の勃發であり、これを蘆口橋事件と云のである。日本の不擴大主義にする局部解決も水の泡、遂に支那事變と一變し、日本は北支に、中支に、南支に、海南島に兵を向けざるを得なくなり、今や全支日本軍の爆彈の届かさるところはない位い進展し、抗日軍の壞滅と同時に親日政權が誕生し、興亞の和平が齋らされんとしてゐるのである。それか蘆口橋に於ける支那軍の一發の銃聲が原因と思へば驚かざるを得ない。(印畫の複製る禁ず) -
蘆口橋風景 (北支)
寫眞は蘆口橋を示したものである。この橋の石材は總て大理石をもつて築かれたもので唐獅子、駒犬の石調は實に壯觀なもので、支那ならでは見られぬ偉大さである。橋上、人か通り自動車が走り、黃包子が通ひ、馬が通り、駱駄が通りして頗るのどかなものである此處が支那事變の發祥地とは見られぬ和な風景である。橋は金の大定二十九年、金主世宗雍、命じて石矼を架せしむ工起して四ヶ年即ち明昌三年の秋、工竣る長さ六百六十尺、古來著名の大橋であり明淸に至つて重修と記されてゐる。(印畫の製複を禁ず) -
一文字山の碑 (北支)
一文字山の碑は、帝國在鄉軍人會北京分會に依つて昭和十三年七月七日支那事變一周年記念日に建立されたものである。碑面の文字は「支那事變發端之地」としてあつて、裏面には「支那事變勃發一周年記念の日に方り北平在留邦人之を建つ」としてある。碑文の文字は當時この碑のあるところに立つて指揮した牟田口部隊長の筆蹟を刻せるものである。|(印畫の複製を禁ず) -
一文字山の碑 (北支)
一文字山と云つても山ではない、謂ば低い丘陵で、この寫眞は全景を示したものである。寫眞向つて右の柳葉の茂つたところが、支那事變發端當時、陸軍歩兵軍曹長谷川喜藏戰死の地である。|(印畫の複製を禁ず) -
通縣 (北支)
通縣ば北平東陽門外から四十支里の地點に在つて大運河の畔に瀕し古來北京の咽喉を扼せる東路の一要衝たる地位にありしが近時鐵道の開通に依つて其の生命を奪はれ逐に昔日の成觀を見る能はざりしが、北支自治獨立の先驅をなした冀東防共自治政府か通縣に設けられ、一躍世人の注視を惹くに至り更に北支事變の勃發と共に我が同胞の悲慘なる虐殺事件等起りしは吾々尚を當時をせ想起せしめる寫眞は通縣中央の鐘樓である古い歷史を有す土地抦として街相の風雅さも味うべきであろう。(印畫の複製を禁ず) -
通州の塔 (北支)
通州の白塔である。北京を離れて通州に向ふ者には、この白塔が目標でありまた懷かしいものてある。遠く後周代の建築として、十三層の燃燈舍利佛塔として有名な塔である。これに依つて考へるに往昔佛敎が盛んであつたことが伺はれる。(印畫の複製を禁ず) -
通州の運河 (北支)
通州の運河は人工水路として八百余哩あり世界第一の運河であつて、通州はその終点となつてゐる。古來、この運河によつて國內交易が行はれ、中南支方面の文物は始んでこの水路によつて運び込まれたと云つてもよい位利用されたものである。|(印畫の複製を禁ず) -
通州の街 (北支)
通州は昔から北京に次ぐ繁華な地でまた熱河地方への通路であつた、從つて人の去來も多く街は殷賑を極めたものであつた。現在としても頗る繁華な都市で、商業は盛んである寫眞は夏の通州市街風景である。|(印畫の複製を禁ず) -
通州邦人遭難地 (北支)
昭和十二年眞夏、日支戰端を開く時冀東は殷汝耕の支配するところとして、日本人は安住してゐたところ、政府の警官、官兵等は秘に謀つて日本軍の手薄をねらつて、深夜邦人の襲擊をなし邦人男女の非戰闘員を城壁外に拉致し虐殺慘殺をほしいままにしたところである。寫眞に映ずる地形から見ても昔の刑場を思はせ、陰慘な氣を起させる。此處を訪問する者、柵內の木標の文字を讀み、四邊を見廻して憤然たらざるを得ない氣がする。|(印畫の複製を禁ず) -
通州白塔を望む (北支)
通州が昔し北京より文化が發達し、佛敎が盛んであつたことはいろいろの事跡に依つても相像されるが、この白塔は、その文化殷盛を物語る唯一の史料である。夏日擴大な蓮池の向ふに聳ゆる燃燈舍利佛の十三層の白塔を望む時、後周時代の氣分に侵ることが出米る。北京方面視察者の一度は技を曳き足をはこばしてよいてところである。(印畫の複製を禁ず) -
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王昭君の墓 (蒙疆)
漢の元帝には三千人の後宮美妃がゐた。絕世の佳人王昭君もその一人であつたが、美貌を誇つて畫工に賄路を贈らなかつたので遂に元帝の寵を得ることが出來ず悶々として日を送つてゐた。その時匈奴呼韓邪が漢朝に來朝し貢を捧げた時、元帝より王昭君を貰つて歸國し妃となつた。呼韓邪が死ぬとその子の妃となつて暮したが鬼畜等しい蕃風に堪べず逐に毒死した。墓は厚和の南二十里黑水沿岸にある。碑には「漢明妃昭君之墓」と刻してあるが、このあたり白草繁茂してゐるが、墳慕の附近一帶靑靑した草が茂つてゐるので靑塚とも云つてゐる。(印畫の複製を禁ず) -
王昭君の墓より陰山を望む (蒙疆)
厚和城の南二十里、黑水沿岸の小丘にある漢室の美妃王昭君の墓に立つて望めは、眼界の限り蒙疆大平原で遙かに遠く薄く霞むのが陰山山脈である。閨怨に泣けども漢室後宮第一の佳人として元帝をして「朕誤てり」の一語を洩らさしめ、逐に胡俗の妻となり、果敢ない生涯を送つたとしても、戲的最後に後人をして涙を流さしめたとすると、鬼となつてもこの雄大な景を眺める昭君の靈は果して不幸であるかである。(印畫の複製を禁ず) -
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歸化城の淸眞寺 (蒙疆)
蒙疆地方に於ける回敎信仰は實に驚く程でこの地方を旅行する者は必ず淸眞寺と云ふ特徵ある建物を見る、これが即ち回々敎の寺院である。歸化城にも寫眞に見る如きこの土地としては豪壯過ぎるほど立派な淸眞寺があつて住民の信仰の的となつてゐる。斯やうに、神を信じ神を念じて生活の糧として終止し得る回敎民族は實に幸福であると云ひ得るであらう。(印畫の複製を禁ず) -
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南天門 (山東省)
宋の大中祥符元年十月、眞宗帝は天書を奉じて封禪の大儀を擧げてこの邊に一宿した。すると夢中に神靈顯はれ『余は周の諫官なり、帝の仁政を祝する為めに來れり』と告げた。眞宗帝夢より覺めて夢中のことを寵臣王欽若に問ふて、周の流寓唐宸、周武、葛雍の三忠臣なることを知り、廟を建てて祀つた今岱山の頂に廟はないか、山麓岱廟内に三靈候相がある。これが即ち周の諫官を祀つたものである。寫眞はその南天門で、この門をくぐれば四五の茶店があつて、岱山登山者の謁を潤ほして吳れる。(印畫の複製を禁ず) -
(印畫の複製を禁ず)
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大同善化寺 (蒙疆)
大同は雲崗の石佛を以て古文化の繁華を知られてゐるが、城内にはまた善化寺の如き擴大な寺院もあつて、如何に昔の大同が佛敎文化に富んでゐたかが伺はれる。寺は大同城の東門にあり、城西門や華嚴寺とともに古き建築として知られてゐる。|(禁印畫複製) -
大同善化寺第一殿 (蒙疆)
寫眞は善華寺の第一殿である。門を潜つて進めば石段があり次に石刻の狗が左右に一對ある扉を排して中に這れば閻魔大主の如き像が柵を圍んで安置してある。外廓は見る如く壁が落ち屋根瓦は燕雀の巢となつてゐるが、擔の木彫刻の精細巧妙さは古建築としての澁味を充分に備へて佛敎盛んなりし比の繁榮を偲ばせて吳れるが、今は參詣人の影もないのが淋しい。|(禁印畫複製) -
大同善化寺第二殿 (蒙疆)
善化寺第三殿の入口には對聯が揭り、扉の上には珍らしいも南無阿彌佗佛の文字が書かれてある。殿内は第一殿第二殿の如く内部の裝飾は精致巧妙で絢爛を極め、その中に澤山の佛像が安置してある。建物の裏に擔の低い家が見えるがそれは僧房である。|(禁印畫複製) -
大同善化寺第三殿 (蒙疆)
善化寺第二殿は第三殿より稍々大きく境内に鐘樓その他の小建築があつて復雜である。殿内には閻魔大王の侍臣と思はれる刑吏の役人らしい像が立ちならんでゐる。そしてその奥には絢爛目もあざむく程の佛像が安置され天井の彫刻もまた頗る巧妙で、そのきらびやかさには驚くほどである。|(禁印畫複製) -
大同善化寺樓閣 (蒙疆)
善化寺の樓門は寺の左側周壁の、第二殿と第三殿との中間ごろのところにある。本殿よりは小さい建築であるが、二層樓で、建築の優美さは他の建築よりはるかに佳く出來てゐる惜しいことには壁が落ちて昔の美を損ふてゐるところが多い、寫眞に煉瓦の山を見るが、何處か破損個所の修繕でもするのであらう。|(禁印畫複製) -
大同善化寺の石紋 (蒙疆)
寫眞は善化寺第一殿入口にある石刻の紋である。何時の時代の作か知らないが、巧妙な石刻で、簡單なものではあるが名匠の作に違ひない。|(禁印畫複製) -
大同善化寺の閻魔王 (蒙疆)
善化寺第一殿の扉を排して這入れば第一門の兩脇に寫眞の如き閻魔大王が柵の中に坐してゐる。出來は古いものでないらしくあくどい色彩の粉飾には支那人の好みの濃厚さを物語つてゐる。一覽、有難さも感じなければ、威嚴も感じない、殘るところは嫌らしさだけである。|(禁印畫複製) -
大同善化寺の佛像 (蒙疆)
善化寺に安置してある佛像で一番優れてゐるのは第二殿の佛像である。絢爛目をあざむく殿内の裝飾の中に、阿彌陀如來、釋迦、觀音等の佛像が金色燦然と構え、座してゐるところはなかなか賬やかである。天井の精致を極めた彫刻は往時の美術を偲び不細工な支那人の中にも斯る細密で巧妙な作を好む名匠がゐたものかと驚かされる位いである。|(禁印畫複製) -
大同善化寺の仁王 (蒙疆)
寺の山門には何處にも、鬼を裁く閻魔樣の像があり、その下には必ず仁王樣が赤鬼靑鬼の屬吏を從えて構えてゐる。善化寺にもそれがあるが、此處では山門でなしに第二殿内に安置してある。閻魔大王は新しく俗惡であるが、仁王樣は相當の時代ものらしく、作もまた力がこもつてゐて、閻魔の廳の獄吏に相應しいものである。|(禁印畫複製) -
大同善化寺の石紋 (蒙疆)
善化寺第三殿の前庭に寫眞の如き四段重ねの石がある。何に使用したか不明であるが、石の古びたところから見れば相當の年代を經過したもので、蓮の彫刻の模樣なり風から見れば六朝前後の作と思はれる。切角の銘石も出來た年代か不明であり、用途か不明であるのは殘念である。|(禁印畫複製) -
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大同東門の檐 (大同)
大同が千年前の支那北魏の都であつたことは、史家や、建築研究家や、考古學者に依つて評論に説明され、本社に於ても屢々寫眞を以つて説明したところである。|寫眞はその古都の城壁に殘された東門の擔であるが、これは明時代の建築であつて、北魏齋魯時代の文化とともに時代の繁榮を知ることが出來るのである。朽ち果て荒廢したこの僅の建物が時代文化の發達を證明することを考へると、如何にしても原型保存の必要を感ずるであう。(印畫の複製を禁ず) -
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太廟の大門 (北京)
太廟は北京天安門前の東から北に向つてある。廟は明の永樂十八年に建立されたもので歷朝歷代の列聖や功臣を祠つたところである毎年四季と歳暮には太廟の大祭が執行される寫眞はその太廟の城壁に似た高扉の一部にある門の全景である。一瞥その廣大を伺ふに足るであらう。 -
太廟第一殿 (北京)
太廓の大門を潜つて中庭に這入れば、直ちに眼前に擴大な太廟第一殿建物が身に迫る。多分拜殿と云ふべきところであらう、何時の重修か知らないが、屋根瓦の上には夏草か茂り、『口口大廟』の勅額も古びて錆が出てゐる。廟を訪れた者は、此處で既に奴肝を抜かれた形である。 -
太廟の飾石 (北京)
太廟の祭典が歷朝皇帝の親祭であつただけに、太廟の構へは實に擴大で、また總てに善美を盡してゐることは今更云ふまでもない、この寫眞は、總て大理石で作られた廟内の飾石である。筆者は、もうこれ以上に説明する力を有たぬほど、構へか大きく、また善美を盡したものである。 -
太廟皇帝の椅子 (北京)
太廟の祭神か列聖と功臣であるだけに、その祭祠は支那歷朝の皇帝が親しく行はれたものである。で寫眞は、神典の際、皇帝が用ひた椅子と、その祭典に用ひた道具である。今は太廟の祭典を執行する皇帝もなく、それらの器物は寳物殿に藏められて、一般の參觀に供せられ、參觀者は徒らに往時の盛儀を偲ぶだけである。 -
太廟の石段 (北京)
太廟の石の階段は瑞雲と龍の彫刻で出來てゐる。その昔皇帝親祭の際品三位以上の臣のみがこの石の階段の通行を許されたものである。歷朝の大臣宰相が、衣冠束帶に木履を穿いて眞面目な顏をしてこの石段を轉ばぬやうに用心して登る時の顏を想像すれば、苦笑しながらそこにまた、祭典の意義が如何に重大であつたか偲ぶことが出來る。 -
寳禪寺 (北京)
寳禪寺は護國寺街の西、寳禪街の北にあり即ち元の大承華普慶寺である。成化庚寅年の建立にかかり後朝廷に聞し『寳禪寺』の額を賜つた。寺内老木欝蒼靜寂の氣充ち、神韻寵るの感がある。兎に角、北京に於ける古刹として知られてゐる。 -
寳禪寺 (北京)
寫眞は寳禪寺の一部を示したものである。六朝時代建立にかかる由緒ある古刹であるが特に有名なのは唐以來の碑文を蒐集し保存してあることである。 -
磚塔雙頭寺 (北京)
磚塔は西四牌樓南大街路の西にある。塔の由來は、元代の名僧萬松老人入寂の地として紀念塔として建てられたのに始る。その高さは十五尺、七級である。磚塔は二基あるを以て雙塔と呼ばれてゐるが、金時代の建物として有名である。 -
護國寺 (北京)
護國寺は護國寺街にあり、寳禪寺と向ひ合つてゐる寺の原名は崇國寺と唱えてゐた。寺中にはもと丞相、明の姚廣孝等の像があつたが今は殘つてゐない。が、毎月七八兩日に行はれる廟會はなかなか盛んなもので、いろいろの商賣が雲集して市が立つ有樣である。寫眞は、護國寺の元碑と云つて、寺の由緒を物語る古い、樓である。 -
護國寺 (北京)
護國寺は北京に於ても古い寺として有名であるが、寺内にある元の牌樓とともに、元代の獅子も有名である。一見して判るが、その彫刻の妙はその時代の美術と藝術と技術を物語り、工藝文化の發達を伺ふにはこれ以上の物はないと云つてもよい程である。古く荒廢した寺院に、元碑二基獅子一基か淋しく殘るのもまた一沫の寂しさとともに妙味を感ずる次第である。 -
南京風景 (南京)
南京は、爾來六百有餘年間明淸の雨朝を興亡離散せしめたる。悲風慘雨の歷史を遺せるの地、往昔の英雄の心緒を想ひ、郊外の台地に立でお霞んだ。家並が軟く浮んで郊外に伸びた。道路は白く曲折しその行人の姿にも早春の麗かさが流れて中支の特色を示してゐる。|(印畫複製を禁ず) -
明の孝陵 (南京)
朝陽門外約三哩、鍾山の南西麓にあり、明の太祖洪武帝の山陵にして其妃馬皇后を合葬してある。中に大明孝陵神功聖碑あり、永樂十一年九月嗣皇帝の建つる所、廓門を入る處に明の孝陵の額あり山陵の周圍に磚壁を繞らし、規模廣大なれど殿樓は門髮賊の乱に燬けて荒草離々たるものだ、陵の後は鍾山にした前方に金陵を控へ、影勝の地にあり、支那に於ける皇帝の陵墓としては最大のものである -
明太宗孝陵の石像 (南京)
明の孝陵道にある道石像象である。その規模の大、樣式の稚味等、支那陵墓中の雄なるものである。その大さは實物大ほどあつて手法は簡單古撲である。 -
南京城郭 (南京)
南京城は支那第一の大城と稱せられ。明の大祖が洪武年間七年を費して創築したものであつて、南京鍾山の麓より、西北楊子江々岸に亘り高さ約三十尺乃至五十尺周圍約三十三哩の磚壁を繞らし、市街は其の東南部一帶に展開し城門拾三個四門は關だ、九門を以て通路とす、寫眞ほ西南隅の一方面の景勝觀である。 -
莫愁湖の展望 (南京)
莫愁湖は水西門外にある。周圍二里の小湖であるが、南京の麗人莫愁が此處に居りしを以て此の名がある。湖畔に中王徐達が明の太祖上棋を圍みて勝ちたりと云ふ、勝棋樓がある。これは兵變後、會國藩の再建したものである。中王の綠尚を樓上に殘つてゐる樓內に莫愁の像ありこれを抄本として賣つてゐる。聯て華嚴庵あり樓に苦茗をすゝり乍ら眺望する景殊に優れ、湖中敗荷多ければ○ければ初夏の候が最も其絕賞とするに足る。 -
石獅子 (南京)
明の太祖洪武帝の山陵、陵道には七八十歩毎に石造の獅子、駱駄、象、麒麟、馬二對宛道を夾んで立つてゐる。此の寫眞は其の石獅子の一部で、其の雅味に富んだ姿は當時の作者の氣風を偲ばしむるものがある。 -
明の孝陵の武臣石 (南京)
明の成祖長陵參道には十八體三十六軀の石獸石人石獸像が道を夾んで左右に對立してゐる。此の石人像は高さ約三メートル巨大なる石材を以て刻まれてゐる。その古陵雅味は往時の手法を偲ぶに足る。 -
臺城 (南京)
鷄鳴寺北より直ちに西に折れて延長凡そ三百間、之れ梁武帝の創建したる古城趾即ち台城の一部である。蓋し古の台城の北部にして明初金陵を擴張せし時古城の一部をそのまゝに存したるものである。俗稱台城門を入れば華林園にして園中景勝山勝がある。 -
鷄鳴寺 (南京)
北極閣の東面鷄鳴山の中腹にある。山門に勅建古鷄鳴寺の額を掲ぐ。此の寺は梁の武帝が行幸して四部の無遮大會を開きたる同泰寺趾で又六朝累代居城(建康宮)の遺跡である武帝が行幸の際此の地にて鷄鳴を聞いたのに因で、寺名が出た。又彼の達磨と物語りし所なりとも曰ふ。現在の寺は明代の建立にして後方の客殿よりは玄武潮鍾山等眺望も亦優れてなる。 -
明成祖長陵文人像 (南京)
陵道を歩せば、石獸の夾立しあり、其の次に華表が一對、建ち、次に文武官人二對がある。これは文人の石像で彫刻の手法の巧致亦た優れてゐる。 -
開原城外風景 (滿洲國)
開原は豆と高粱の集散地として有名な街である。謂ば大豆と、高粱で出來あがつた街であると云つてもよい、寫眞は、冬期結氷中に幾十里と離れた農村から、百姓が大豆や高粱を馬車に積んで、野を越え、山を越え、川を渡つて開原の街に賣りに來たところである。目の前にある馬車は乘用馬車であるが、左手の目に見えないところには、大豆を連んで來た馬車で一つぱいである。 -
開原風景 (滿洲國)
開原城內に這入ると本通りに寫眞の如き塔がある。何時の世に出來たものか、何の塔であるか筆者は知らない、然し石の古きを以つて見れば、開原の街もこの石塔と同じい年代街であることを察することが出來る。 -
開原風景 (滿洲國)
開原風景として城內本通の塔を紹介したが今度の寫眞も亦石塔である。街の道路の眞中に妙な形の塔がある、何か名があるかも知れないが筆者は塔と云ふより他に謂ふべき名を知ない。開原城內を散策した者はこの塔を何氣なしに見て通るであらう。 -
遼陽風景 (滿洲國)
遙るか見える塔は遼陽の白塔である。古き遼金の時代の建立として有名である。寫眞のすぐ前にある物は煉瓦工場である。 -
東京陵 (滿洲國)
東京陵は遼陽の北、大子河の畔にある。昔し淸朝が奉天に遷都する前まで、この地に都を置いたところである。 -
首山堡狼煙台 (滿洲國)
橘中佐で名高い首山である。岩石の山を見ると、如何に當時の戰爭が苦戰であつたかが想像される、頂上の塚のやうな築造物は昔しの狼煙台で、これが今日の傳令の役を果し、或は無電の役を務めたものである。 -
吉林の水汲 (滿洲國)
吉林の街を歩いてゐると騾馬が水桶を積んでトコトコと歩いてゐる、これが即ち吉林の水汲風景である。一荷何錢か知らないが吉林の街の住民はこれを買つて生活してゐるのである。夏秋の水汲はまだいいが、冬ともなれば水桶からこぼれる水は氷となり水柱となり馬の鼻息は實に寒さうな風景である。 -
奉天の窯業 (滿洲國)
寫眞は奉天の窯業工場である。幾十百となく作られたカメは釜に入つて素燒となり藥をかけた本燒となつて、滿洲國人の家庭用品となつて市場に賣出されるのである。 -
吉林の家屋の窓 (滿洲國)
寫眞は吉林の家の窓を示したものである。或は窓と云ふより障子と云つた方が判りいいかも知れないが、どの家の窓の障子も寫眞のやうな雅味ある細工をしたものである。これによつて見、これによつて考へて見ると、吉林人の趣味の深さも察しられるし、その風流ぶりも判明されるが、更に深く考へると、古都としての吉林を思ひ、富裕な吉林人士を偲ぶことが出來る。 -
公主陵 (滿洲國)
公主陵は公主嶺の西方二里の地點にある。昔し、この地方を領した豪族の跡として、その豪族即ち當時の土地の國主を葬り祀つた跡と云はれてゐる。古老に聞けば、面白い傳說があり口碑が殘つてゐるが、紙面の都合で此處には說明出來ない。 -
蘇州の機織 (中支風俗)
寫眞は蘇州名產の綿布を織るところであるまだ機にかける前の糸はゑの圖で、幾十と立つてゐる綿糸をはゑて織物の縱を作るところである。春の日ざしの暖い日に、庭に出て、小唄を唄ひ乍ら糸をはゑるところきは、近隣の姑娘がそつと覗きに來る位い慾長で且情緒豐なものである。 -
蘇州の綿布 (中支風俗)
蘇州は綿布の產地として有名である。寫眞第一圖は織機の前哨曲であつたが、本圖は既に機から下ろされた綿布である。悠ろして、山と積まれた綿布は、一日天日に乾して、織屋から商人の手に渡り、商人から商人の手に渡つて農商民の衣類となるのである。 -
蘇州の籠 (中支風俗)
支那にはまだ籠が殘つてゐて交通機關の一助となつてゐる。山に登るには山籠があり遠い旅をするにも籠が利用され、寺廟に參詣するにも籠でお參するところもある。寫眞は蘇州附近で使用してゐる籠で實に悠長なものである。悠ゐして幾十となく續く籠の行列が通る時は村童ばかりでなく大人も出て珍らしく見送るのである。 -
杭州附近の子守籠 (中支風俗)
寫眞は抗州附近の農家の風景を示したものである。一家は亭主も媽々も畑に出て働くが家には藁で作つた守籠に乳のみ兒を入れて置くのである。守俗の周囲に收穫してある野菜類は實に見事な出來榮で、この收穫の前には働いても働いても疲れを知らないのが農夫の心情である。 -
折江省風景 (中支風俗)
支那折江省の農家の風景である。家の周囲の情態から見ると秋の風景で、漸く米の收穫が終つたところである、秋らしく家の前の流れも和かで岸の物さが送に水鏡となつてゐる眞晝の百姓の一休みと云ふところであらうその團樂欒りは悠やましい。 -
錢塘江沿岸 (中支風俗)
錢塘江に就ては裏に紹介したが、また此處に水郷錢塘江沿岸を紹介する。この家は、錢塘江岸の半農半漁を業とする家で、江面には家鴨が一匹泣いてゐる。等開な風景であり、只だ氣になるのは家の壁にかかれた樂書であるが、判讀すれば、その意のあるところが察しられるであらう。それによつて 察すればこの平和な水郷にも土豪劣紳の惡の手が延びてゐるのではあるまいか。 -
錢塘江附近の漁家 (中支風俗)
寫眞は水郷錢塘江の漁家である。水中に柱を建て、竹を締んで壁とし屋根は漸く兩を凌ぐ足るや否や 然もこの水上の家には寢室もあれは廚房も出來てゐるのである。漁家だけあつて葉舟一隻、竹籠も備はつてゐて、江上に漁し、その漁穫は近隣の街や邑に賈して、生計を建ててゐるのである。 -
杭州民船碇泊 (中支風俗)
水で有名な坑州には寫眞のやうな舟が交通機關であり貨物運送の役目を果すのである。何處から來たがこの民船は坑州の街に沿れた運河に入り錨を下し一泊したところで、今朝霞の中に炊畑を上げてゐるところである。靜寂から入らんとする朝の朗さは實にいい氣持のものである。 -
蘇州の風景 (中支風俗)
蘇州坑州は支那の水郷として有名である。寫眞は蘇州の街に流入した流に架した橋で女が橋下の水に親しむ圖である。蘇州の街には悠うした橋が架せられ、舟遲によつて交易が行はれてゐるのである。 -
支那の僧侶 (中支風俗)
佛數は印度に起り支那に傳はり、支那から日本に傳はつて今の日本の宗敎は佛敎全盛である。然るに支那の佛敎は今は寺院を守の僧侶によつてのみ殘つてゐると云ふ風で、でうかすると道敎に推され勝ちである、が、然し佛弟子は依然として寺にあつて、式らかの信徒を有してゐる。寫眞は支那僧侶の圖であるが、服裝からすれば矢張り佛敎で日本の僧侶の服裝と似ゐる。