亜東印画輯/07
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●市中所見(灰幕洞)
鐵道開通と云ふ漫然たる見越しから移住して來た人々と、兵匪の災禍から逃避してきた群とが、雜然と多數集つて出來た新開地灰幕洞の市中は、未だ移住地らしい雰圍気でゴタゴタして居る。工事關係者と若干の視察者を顧客とする如何にもそれらしい料理店と旅舎、鮮人勞働者相手の雜貨や食料の露店……然しゴミゴミの中にも何處かに將來への生氣が流れて見へる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●灰幕洞市街(一)(延吉縣)
現在日滿新連絡の上に注視の的となつて居る灰幕洞は圖們線開通前迄は殆と人煙稀なる一寒邑にすぎなかつた。昨年三月敦圖線の測量開始に連れ羅津港への連絡地點と決定されるや、来住者相踵ぎ、現在の進展を見るに至つた。同時に當時尚不安であつた兵匪の災禍も、漸次警備その他の充實で殆と安定を見、今や人口一萬を算する都市を形成するに至つたのである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●灰幕洞市街(二)(延吉縣)
灰幕洞は圖們江を隔てゝ對岸朝鮮の南陽と指呼の間にあり、嘎呀河[カヤホ]圖們江の兩河合流地點の平野に位し、日滿國際通路の要街である。流域の沃土に惠まれたる地形と雄基羅津港への連絡驛としての樞要地として、今やその市中は鐵道作業と建築工事の渦の中に、隣接地を包有した約二十萬収容の新圖們江驛への前提提として準備に營々として居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●國際鐵橋(一)(灰幕洞)
延吉縣灰幕洞と咸鏡北道南陽との間を繼ぐ圖們江上の橋梁を圖們江橋と云ふ。 昨年敦圖線の工事始まり、次で雄基羅津への連絡を決定せられてから、日滿連絡國際鐵橋として工事の進捗を見、更に圖寧線工事開始により會寧への通路ともなり近く鐵路總局の手にて複線の計畫もありて、益々重要なる處となつた。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●國際鐵橋(二)(灰幕洞)
圖們江橋は橋脚二十(兩岸を除き)長さ四百二十米の鐵橋で昭和七年八月起工、工費二十萬圓を費して漸く本年竣工したものである。 愈々日滿連絡線完成の日は貿易上に及ぼす影響甚大なもので、日滿交通に一期元を劃すること明らかで安義間を凌ぐ國際重要地點となるのも遠い日ではなからう。 對岸の街は朝鮮の南陽である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●圖們江の筏(灰幕洞江岸)
遠く朝鮮會寧の奥山地の上流より、幾日かを江上に徭られて筏は灰幕洞窟の江岸に泊る。有名な鴨綠江のそれ程に大きさは見られぬが、日々に拓け行く沿岸の文化をよそに、兩岸の山容に景趣を添へつゝ、湲やかに流れ來る筏の野趣……彼らの人生もその筏の生活と共に日々に流轉していくのではあるまいか。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●江岸の隧道(南陽附近)
咸鏡北道南陽縣から鐘城に通ずる線に沿ふて、圖們江を南陽より約三粁計り上流に幾つかの隧道が續く。江岸に沿ひ、淸流を隔てゝ送迎する窓外の展景は、新綠に紅葉に旅情を慰め詩趣をそゝり、更に指呼の間に隱見する對岸滿州國の山容水態は、人をして漫に國境情緒に旅愁をそゝらしむるであらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●開山屯(和龍縣)
開山屯の街は天圖鐵道の終點として、上三峯鐵橋を隔て、對岸朝鮮の上三峯に接し、現在人口一千餘戶數二百ばかりである。 將來圖寧鐵路完成の日には灰幕洞南陽より上三峯を經ての連絡と、更に龍井村より會寧方面に通ずるにも相當樞要となる街である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●上三峯鐵橋(開山屯)
上三峯鐵橋は敦圖線朝陽驛にて天圖鐵道に乘換へ龍井村に至り、更に開山屯より朝鮮の上三峯に出で會寧に通ずる線の、開山屯上三峯間に架せられて居る。 圖は開山屯より見たるものにて、對岸の町は上三峯所謂國際鐵橋として兩國の稅關があり、日滿連絡の一通路として北鮮滿に必須の要點である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●門岩(石門子附近)
南陽と開山屯との約中間に、圖們江の支流石門子河の清蹟がある。對岸相迫る處、両側の山上に巍立相對する巨巖あり、恰も門をなすが如きために門巖の稱がある。往昔征韓の際、加藤清正が間島進出の折に通過したところと口碑に殘されて居る古跡である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●嘎呀河
(灰幕洞附近) 凉風に搖られて滑るやうに河面に流るゝ筏の影、山々を後に滴るやうな碧翠の香漂ふ河岸の濃綠、嘎呀河の夏は白帆の影に白日の夢をのせて流るゝ。延吉縣と云へば匪賊の巢窟のやうに怖れられて來た沿岸も、今は昔を忘れたやうな平和な情景の中に河波は靜かに流れていく。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●圖們驛
(灰幕洞) 圖們驛は新線敦圖線の終點として同時に圖寧線の起點驛として、圖們江を隔てゝ對岸朝鮮咸鏡北道の南陽驛に對する日滿國際連絡の重要驛である。舊稱灰幕洞を図門驛と改稱されモダン洋式の堂々たる建築物にて階上はホテルを經營して旅客の便に備へられる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●延び行く街
(灰幕洞) 昨日までは所在さえも知られなかつたこの町も、時運の變遷から廣い荒蕪地も市街地となり環境の發展から漸次膨脹され灰幕洞の舊稱から圖們の新名になる迄、一年前の寒邑も日一日と長足に伸張の步を進め、今は戶數二千二百餘人口一萬餘を算し更に本年中には二萬の數を突破すると云はれて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●滿洲國の税關
(灰幕洞) 圖們(灰幕洞)には滿洲國、南陽には日本國の稅關が河一つを界に相對して居る。小成金の夢を抱いて滿洲國に吸はれる勞働者の群、何程かを嚢中にして歸る白衣の人と、その他の旅行者等の査證―こんな小さな渡舟客相手の稅關にも國境と云ふ尖端的なヒラメキは動いて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●江岸の材木置場
(灰幕洞附近) 遠い山奥の上流から筏や舟で流送されて來た材木は陸揚げされて江岸に堆積される。同時に製材されて木材は大部分は土地の建築工場に廻され、新興都市の土臺となり骨組みとなりて次々と消費されて行く。材料不足の聲が材木の値を吊上げて行く處に新興らしい氣勢が伺はれる (印畫の複製を嚴禁す) -
●渡舟
(灰幕洞) 渡舟と云ふと如何にも時代物らしい野趣とのんびりした情景とが偲ばれる。灰幕洞南陽間日滿連絡唯一の交通機關として支那時代からの昔のまゝの水流を利用した乘合船は、言語や風俗を異にした人々の群を所謂同舟の人として今も尚兩岸を往來して居る。新しい大鐵橋の上を列車が奔つても尚この姿は續く事であろう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●架橋工事
(圖寧線) 布爾哈通河岸の流れに沿ふて圖寧線が走つて居る。圖はその架橋工事である。由來此地方は所謂間島地方として舊支那時代には政治的に種々なる問題の惹起した處で殊に朝鮮とは特種の地位に置かれてある。然し滿洲國の出現は過去を淸算して共存共榮の意義からも必ず好調に進む事であろう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●貨物の陸揚げ
(灰幕洞) 鐵道工事の建築材料と從業者の食料雜貨等の日用品が工事の擴大と共に關係者の蝟集が多くなり、その供給が舊式な渡舟では補充に追はるゝ程に運ばれる。新らしい建設への勇躍進展振りはこんな場景へも活氣が横溢して居る。そして勞働者の殆ど全部が皆鮮人である事も見逃してはならない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●軍隊に守られて
(灰幕洞) 嘎呀河の淸流に沿ふて敦圖線の工事が着々と進渉されて居る。舊支那時代には政治關係と匪賊に惱まされて來た地方だけに、嚴しい武裝の兵隊さんが如何にも鹿爪らしい恰好で監視と警備の任に當たつて居る。支那靴雨傘姿ののんきさが見られぬのも一つの進歩のあらはれである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●南陽驛
(朝鮮咸北) 南陽驛は目下建設中の純朝鮮式型の建築で、河を渉つて初めてこの地を踏む旅行者には國が異つたと云ふ新らしい氣分をそゝる。驛は圖們線の中間驛で南陽雄基線と南陽童(左にこざとへん阝、右につくり童)關鎭線は旣に開通して、更に會寧淸津羅南方面にもこの驛より連絡し得るので将来樞要な驛である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●延吉縣
(敦圖沿線) 延吉の町は驛より北方約一邦里の地點にあり、元局子街と稱し延吉の名稱は以前近傍一帶の總稱であつた。附近に山間の沃地を抱き、移住鮮人の農作により、或は砂金の採集地あり更に天然人參の集散地として有名な地である。縣政治の中心地として支那時代より重要な地なりしが、敦圖線開通後は更にその發展を刮目さるゝ地である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●明月溝
(敦圖沿線) 所謂一望千里と云ふやうな滿洲風景は此處では味はれぬかはり、隨所に山あり川あり山容水態が漫に內地の風致を偲ばせる。冲天に明月冴えゆくりなくも山の影水の囁き母國の夢を誘ふ夜、この僻地に公務いそしむ人の胸に感傷を湧き來るのは當然の事で、明月溝はその詠歎から生れた地名である。舊名は甕聲磖子[ウスラーズ]と云ひ反吉林軍の巢窟であつた。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●殉職者弔魂碑
(敦圖沿線) 創業にはいつの時でも先驅者の犠牲が伴ふ。敦圖線建設の工事が創められて今日漸く完成を見る迄に、各方面から總數七十二名の尊い殉職者を出した。名もゆかしき明月溝後方の丘地に、その靈を弔ふ弔魂碑が建設せられ昭和八年八月廿六日除幕式を擧げられた。月明山下に冴ゆる時、芳魂は永久に拓け行く山河を俯瞰してその地を護る事であらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●鐵橋と隧道
(敦圖沿線) 此の沿線一帶は隧道の數の多いだけでも如何に困難な工事であつたかゞ想像出來る。しかも始終脅かさるゝ匪賊の來襲の中に幾多の辛苦が續けられ、山を碎き川を涉つて自然は拓けて行く。これは十六號橋梁附近の景で隧道の口は第八隧道の入口である。日滿文化への一通路は斯くして日一日と兩國を近つけつゝ進む。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●五虎頂子[ゴコチヨウシ]
(敦圖沿線) 五虎頂子附近一帶の地勢は恰も南滿安奉線中の勝地釣魚臺附近の景に髣髴し、平地を奔り溪谷を縫ひつつ流るゝ淸流は、時に山を迎へ巖を送り断崖に迫りつゝ進み、鐵路はその間を屈折迂廻して馳る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●河岸に沿ひて
(敦圖沿線) 翠玉を堪えた碧潭に沿ふて汽車は奔る。窓外に送迎する兩岸の展景は旅客の身を遙かに內地の情景に誘ひつゝ、此頃迄の匪賊の脅威も何もかも忘れたかのやうに人々の眼を樂しましめ心を慰める。延吉驛磨盤山驛中の一勝景である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●峠の朝
(哈爾巴嶺) 朝霧に包まれた黑繪のやうな山頂の眺め、草叢にすだく虫の音など哈爾巴嶺頂の初秋の朝は淸々しい。南滿地方と間島地方との分水嶺をなす哈爾巴嶺は、鐵道開通前は皆この險坂によつて交通されたものであるが、今はこの難路も客車の中に安らかな夢を運ぶ事が出來る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●依蘭溝[ユランコ]河口付近
(敦圖沿線) 敦圖沿線は滿洲中で安奉線と同じく起伏重疊せる巒峰、淸流を抱く山峽の平地、兩岸に相迫る奇巖等變化極りなき風景は內地の情緒を呼び起さしむるに足る。敦化より圖們迄の間大橋梁の數二千、隧道を出入する事十六箇所あるを見ても、如何に變化に富んだ行路であるかゞ判る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●白磊磖子[ハイシラズ]
〔敦圖沿線〕 圖們驛より八十七キロ附近の地點にて全線中の難工地なりし處、楡樹川驛茶條溝驛間の河岸に屹立する巨巖あり、巖下溪流深き處渦をなし、巖上の綠松紅蘿相映ずる樣は景中の絶である。工事中は匪賊に備ふるため丘上に見張所を設けられた處で、山上高く風に飜る日章旗は如何に人々の意を强ふした事であらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●朝陽川驛(敦圖沿線)
朝陽川驛は敦圖線より龍井村を經て上三峯る至る南廻線の分岐點である。今は極くさゝやかなる小驛に過ぎぬが、此の地方木材農作等の中心地なる龍井村を控え、更に他日附近一帶の生產物の集散地として相当の發展を期待せらるゝ要地である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●延吉市遠景(延吉市)
一望の下に展開せられた豐穰なる沃野の中央に位した延吉の街は、支那時代から政事軍事の中樞地で、それに附近一帶生產物の中心市場であつたので今も尙引續き殷賑な町である。敦圖線の開通と共に所謂日滿連絡の通路となつたので、日に日に延びて行く町の姿と共に將來を刮目されて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●粟の刈入れ(延吉地方)
滿洲農民の主要食料として高粱に次ぐ物に粟がある。粟は食料の外に釀造の原料となり、莖は燃料或は飼料に供される。此地方は粟の北滿に於ける主產地で一尺もある房々した粟の穗が刈取られる頃になると、北滿一帶にはそろ(そろ)冬の冷い風が訪れる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●鮮農の部落(一)(延吉地方)
明治十六年開墾封禁の令撤廢せられ、沿江の住民が此の處女地に鋤犂を入れてから以來、永い間苛政の下殆ど原始人の如き悲慘な喘ぎの中に、隱忍と困窮の日を續けて來た鮮農にも春が來た。王道の治下漸く恆產が出來るやうになつたので、永住的な生活も營まれるやうになつた。秋晴れの陽を浴びた、垣根に咲殘つたコスモスの一輪にも長閑さが覗れる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●鮮農の部落(二)(延吉地方)
匪賊と戰禍と排斥の壓迫から蘇生した北端の沃野には日に日に國境を超える移住民が續く。治安の平定と同時に勇敢なる彼等は第一線に鍬を下して行く。勾配を利用して地を掘下げ溫突を据付けると住居が出來上る、穴居に等しい陋屋の前に嬉々として戯れる無心の顏にも希望の陽が照り映える。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●鮮農の部落(三)(延吉地方)
住み慣れた故山をあとにして遙かに國境を越へ、妻子を一輛の牛車に積み、或は一族群をなして一丁の鋤に全家の運命を托し、豐沃地間島地方へと行路を辿つたのは白衣の人々であつた。堪え難き壓迫を忍び或は馬賊に備へ誅求と戰ひ、孜々として荒撫の開墾に踏止り今日の生產を見るに到つた。これは殆ど永住的になつた部落の一部である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●鮮農の部落(四)(延吉地方)
耕農の技術と忍耐の生活とは支那農夫は鮮農に遠く及ばぬ。僅かな土地を開墾し根强く培はれた彼等の力は今日では立派に報ひられた。かくて落付いた農民の生活樣式は環境の趨移から衣食住も漸次變化して、圖に見るやうな支那化した家屋を隨所に見る。一頭の馬、一輛の車、それが財産の全部なのである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●間島事變記念塔 (延吉市)
延吉市本願寺の後方に數基の碑標がある。標前に供へられた生花に額くと漫に日支紛爭の歷史が偲れる。大正九年所謂間島事變として當時無暴なる支那官憲の暴擧に孤軍奮鬪力盡き、その碧血に血ぬらした過去の記錄が偲ばれると共に、事件が今日へ何かの連絡があるやうに思はれる。尊き魂は永久に護國の鬼となりて地下に瞑むるであらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●支那街 (延吉市)
此の地方が農產の主要地となり所謂一大穀倉となつたのは近々五十年來の事で、實に鮮人漢人等の移住民の開墾によるものである。延吉はもと局子街と稱し此地方の政治中心地でもあつたので町は全く支那式でも今も尙色々な支那店が櫛比して繁盛をして居る。圖はその一部で軒に吊された大きな招牌にも昔のまゝの殷賑がうなづかれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●市場街(延吉市)
治安平定と鐵道開通とで耕作や工事に蝟集して來た鮮人の群、それを顧客として生計を營む商人、斯ふしたゴタ(ゴタ)した雜踏の渦にも今は王道治下の餘惠で道行く人々の顏にも生氣が覗れる。雜然と並べられた露店、飮食店の香、その內を白衣の人々は動く。彼等の先人は皆古い歷史を持つ滿洲開發の有力な先驅者なのだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●延吉郊外(延吉地方)
昨日まで馬賊の脅威や支那人地主の壓迫で不安と悲慘な日を送つて來た人々も、その災禍が殆ど掃蕩されて、腰に子供を負ひ河岸の洗濯に饒舌が賑ふ程に平和な生活が蘇つた。圖は延吉市街の西方を流るゝ河岸の一點景である。遠景の山の附近は有名な馬賊の巢窟で、山を越えれば百草河口である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●萬樹園(熱河山莊苑)
榮枯盛衰の歷史は幾度か繰返された、つはもの共の夢の跡を偲ぶには今は餘りにも荒凉蕭條たるものである。喬木の林間に鶯の囀り、樹間を縫ふ鹿の群に都塵を洗ひ、鬱勃たる征を抱懐した帝が豪莊の偉業も、或は紅涙にむせぶ傾國の繪巻も、今は空しく廢園に戯るゝ群鹿の鳴声と、晩秋の稍を涉る風のみである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●熱河源泉(熱河山莊苑)
淸の康熙帝が數次の塞外巡牽中此地方の風光を賞され溫泉を發見せられて、四十二年駐蹕の折避暑山莊建設を仰出された。圖は今舊苑内にある所謂熱河の名稱を生んだ源泉地である。櫛風沐雨幾星霜、熱河造宮の靑史を繙き帝が大經倫を追憶する時、滿洲より發祥せる淸朝の再び此の地に甦るの偶然ならざるを想ふものである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●德滙門(熱河山莊苑)
建設當時の山莊は周圍十六支里餘、南に麗正、德滙、碧峯の山門あり、東に一門更に東北と西北に二門あり、結構の壯大輪奐の雄渾、淸朝覇業の隆盛を物語る大豪華版であつた。更に行宮を設け圍場を造り其後數代に渉る皇帝の行幸は益々その規模を華麗とした。しかも政略的にも對蒙工作上重要なる政事がこの一廓に行はれたのである。 圖は德滙門の跡である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●大行宮(熱河山莊苑)
派手好みの乾隆帝は、康熙帝の後を受けて山莊三十六景に更に三十六景を選び、八處の行宮を十八處に、大規模の增營をして輪奐の華麗を加へ自から詩筆をとり大いに賞讚された。これはその一つで今尙雄大なる外廓に殘る壯麗に當時を物語り、一石一瓦にも昔の夢が偲ばせる (印畫の複製を嚴禁す) -
●水心榭(熱河山莊苑)
如意湖南端に近き處、石梁を架して橋上に三つの樓がある。その昔、遙かに望む淡き水影に彩甍に映ゆる倒影を愛で、鬱々たら蒙塵の苦衷を佳宴に慰め、或は春遊の畵舫に詩筆を流した處であらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●殊源寺(熱河山莊苑)
康熙帝が山莊を築かれてより乾隆帝の代に到り、十六年山莊內に永佑寺と九重塔を造りたるを始めとして寺觀九座を建て、更に郊外一帶に所謂八座の大寺廟を建立した。殊源寺はその後者の一つで五臺山式を型とれるものと云はれて居る。これ等の大造營は當時に於て一つは蒙古牽制の政略上彼等を威壓せんとした遠大な政策であつた事が想像せられる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●舎利塔(熱河山莊苑)
山荘苑北隅に近き處舎利塔がある、當時は玉峯精舎のありし處ならん、一基の塔、一幹の古松に昔を追憶するよしがもないが、朔風强き處静かに諸行無常の精舎の鐘の音に、朝夕の勤行をつゞけた古の盛時を思ふと、盛者必滅の文字が如實に身に沁みるやうに覺える。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●月色江聲(熱河山莊苑)
舊苑內如意湖畔、水心榭に續き岸に臨む亭あり、淸朝華かなりし頃幾度か美妃傾國に傳づかれ龍頭鷁首を浮べ春水に秋月に、玉盃に映る月影に、舷に囁く水聲に春宵の短きを詠じられた處であろう。然し今は僅かに水枯れて弧松の影を宿すに過ぎぬ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●煙雨樓(熱河山莊苑)
如意湖の北にあり、舊名靑蓮島と稱した處、四面水に臨み島上五樓あり、碧波を隔て髣髴たる煙雨の中に望む靑巒の美觀を詠嘆した處であらう。今その樓上に立てば、僅かに往古の詩趣を偲ぶのみで湖上煙波の跡もなく徒に吊古の思ひに遊子の情を痛ましむるのみである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●山莊遠望(熱河山莊苑)
安遠廟より遠く山莊を望みたる全景にて昔時十三を數ふる行宮の甍に夕闇の迫る頃、周囲一帯二十座に近き寺觀より打鳴さるゝ鐘の響の、遠く園場を越え重疊の巒峯に遙ぐ頃、この寺觀の一角より望みたる全景は又一偉觀であつたろう。安遠廟は乾隆帝建立の八座の內の一寺廳で獅子溝にあり伊犁の固爾札廟式の建築と云はれて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●承德市街(一)(熱河省)
嘗つては苛斂誅求とやむなき事なき兵禍に災された住民も、今日は王道の治下なごやかなる旦夕を迎へる事が出來て居る。圖は承徳西街二道牌樓子の一場景で先頃迄は暴政の下に撞著を皮肉り氣に掲げられた扁額の文字『九切惟叙』も、今は字義通りの善政に浴して行交ふ人々の面上にも新政の春が甦つて見える。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●承德市街(二)(熱河省)
承德は熱河省の貿易市場として赤峰と共に省内の主要地で、一は支那本土並に内蒙古等にする對外貿易、他は省内に於ける集散地として商業取引の樞軸を握つて来た。更に近時治安の平定と鐵道の開通とは益々有望なる進展を見せ刮目すべき將來を齎して居る。圖は火神廟大街の光景で災禍からのがれて所謂王道の惠雨に浴した辻々には、日滿國旗が交々風に飜り物々しい傳單も壁間からはぎとられて姿を消して居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●承德全景(熱河省)
承徳は以前より熱河省の政治中心地として省政府の所在地であつた。通稱熱河と稱し、四周重疊の巒峯に圍まれ自然の城壁をなし、東西約五支里南北四支里に亙る都會で、北平と赤峰の中間に介在し省内外の貿易の中心となり地理的にも兩者をつなぐ大街道の交通要衝に當つて居る。附近には史上に有名なる淸朝時代の避暑山莊や大寺廟等の遺跡がある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●郊外の駱駝隊(承德附近)
由來熱河地方は天然の物資豐富なるも未だ住民間に工業の力なく牧畜と農業を主として來たので此等の產物を、主要輸出品とする住民の公益は、その多くが昔から遠く蒙古方面を主とした關係で今でも尙その取引が続けられてきた陸の船と云はるゝ駱駝は輸送の大きな役目をつとめてノソリ(ノソリ)と長い列をなして續く、胡沙吹く蒙古への旅はかくして幾日も際涯なき砂漠の路を辿るのであらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●駱駝を止めて(承德郊外)
落日の關山連峯る夕照の映ゆる頃、破壁を背に駱駝と共に憩ふ一隊の群があつた。行先は東か西か、首に徭らるゝ鈴の音に、彼等はまた遙かな旅路につくのであらう。興亡治亂幾星霜、しかも歷史をよそに悠久なる老大國とそれに抱かるゝ國民性の片影とを、このカメラを通じた一場景がよく物語つて居るではないか。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●密雲市街(河北省)
密雲は熱河地方より古北口を經て北平方面に通ずる要路の中間地として昔から縣署所在地として知られた土地であつた。滿洲事變から熱河征戰となり、更に長城線確保の戰に皇軍最後の苦戰の物語りに共に、新らしくその地名が吾々の惱裡に刻まれた處で、四方山丘に包まれた靜かな支那風の街である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●棒錘山(承德附近)
承德附近の町の周壁をなす巒峯の一角、山上高く突兀として屹立する巨巖がある。氣まぐれな造化の妙技が造り上げたこのグロテスクな姿は、神秘な傳說と交錯されて神話の國から拔け出たやうな形その儘で名も棒錘山と呼ばれて居る。山頂より遙かに俯瞰すれば處近く承德の町を脚下に望み、更に鋸齒狀の連峯重疊し蜿蜒として展開せらるゝ視野は、雄渾の氣恰も波濤の起伏せるが如くである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●烈士の墓標(大凌河々畔)
北滿の風雲急と共に多年滿蒙に關せる蘊蓄を傾倒して皇軍に參畵した人々の中に石本權四郎氏があつた。當時危險極りなき熱河に潜行し不幸暴虐なる賊軍の監禁する處となり、沓として消息を絕つ事四旬其後熱河掃蕩と共に偶然大凌河々畔に無慘にも埋沒された死體として發見せられた。國のため生死を賭した烈士の英魂は、今風凍る異域の河畔新らしき墓標の下に永久に護國の鬼として眠る事であらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●密雲城壁(一)(河北省)
熱河の聖戰は色々な大きな波紋を投げた。治安と自衞のため暴虐を懲膺せんとした皇軍は、一度劍を握るや旦に一壘を陷れ夕に一城を奪ふの果敢を以て進んだ、密雲は實にその最終の頁をかざる戰場であつた。圖はその城壁西門の一廓で、さゝやかる流れは白河の枝流であらう。腥風尙去りやらぬ新戰場は、未だ乾かざる碧血の滴りに殘されたる一木一石にも尊き武勲が偲ばれて低徊尙去りやらぬものがある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●密雲城壁(二)(河北省)
密雲は密雲縣の中心地で縣署所在地として淸朝華やかなりし頃には歷代皇帝の熱河巡幸の砌幾度か往還に車駕を駐蹕せらえた所で、今はそのありし昔を偲ぶよしがもないが、歷史は當時その東門外對家莊に行宮を建てられて絕景を觀賞せられた勝地であつた事を物語って居る。これはその古の城壁南端に唯一つ追憶を囁きげに淋しく殘されたる望樓の姿である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●普陀宗乘之廟(熱河省承德)
(一般名は布達拉廟) 西藏拉薩の布達拉[プータラ]廟を摸して建てた純西藏式の建築。乾隆三十五年は帝の六十の賀、その翌年は母后の八旬萬壽の賀に當るから、定めし外蒙・喀爾喀、靑海の諸王公を始め、新附の準噶爾、回部(今の新疆地方)の諸蕃長等が祝賀のために來るだらうからといふので、乾隆三十二年三月に着手し三十六年八月竣工、前後四年半を費して此の稀に見る一大廟が完成したのだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●喇嘛塔の並ぶ門(熱河省承德)
(普陀宗乘之廟內) 山門を入つて直ぐ眼につくのは此の門だ。西蔵式の盲窓を形ばかりつけ、三つのアーチを設けた臺上に五つの小塔が並ぶ。この西蔵式の小塔をチヨーテン(Chorten)と云ひ、臺下に通路のあるのは、去來往還、これ一道にして迷悟一如だといふ妙理を體得せしめるための方便だと聞く。 遠く見える城廓のやうな樓閣、此處に至つて身は西藏に遊んでゐるかのやうな思ひがする。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●石獅の護る牌樓(熱河省承德)
(普陀宗乘之廟內) 黃、綠、紅の三彩釉陶板を以て目も覺めるやうに裝飾した牌樓、前方を護る壯大な石の獅子が、松樹の粗林の中に立つてゐるのは、美しいといふよりも物寂しさの方が强く迫つて來る。嘗つては皇帝と僧侶以外の人は、此の牌樓以內に入ることを禁ぜられてゐたと傳へられる。總てが昔の夢だ。 石額にあるのは向つて左から滿、漢、藏、蒙の四體文字で漢文は普門應現と讀める。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●喇嘛僧は勤行の道場へ
(熱河省承德) (普陀宗乘之廟內) 牌樓を入つて左右を見渡すと、東西に大きな僧房が建て連らなつてゐる。乾隆帝の時には八百の僧侶が住んでゐたと伝へられ、淸朝末期でさへも六百を下らなかつたといふ。今は百名足らずの者が荒れ果てた廟を守り、時刻が来れば讀經その他の勤行を怠らない。一團の僧侶が暗い佛殿の中で、橫に長い西藏經典を讀み上げる鏽びた聲は、浮き世の外の世界であることを思はせるのに十分だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●宗祖を祀る殿堂
(熱河省承德) (普陀宗乘之廟內) 廟の最も奥にある一大城廓とも見える建築の中庭にあり、正に廟の本堂とも言ふべきものだ。堂内には喇嘛敎黃帽派の始祖・宗喀巴(Tsong-kha-pa)の像を祀り、嘗ては貴重な品々が堂内に充ちてゐたといふが、今殆んど消え失せた。一九三三年米國シカゴには進歩一世紀博覽會を機會に、此の堂と全く同一建築が設けられ The Golden Pavilionとして名聲を世界的に博めた。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●普寧寺の展望(熱河省承德)
(一般名は大佛寺) 乾隆二十年五月、準噶爾(新疆北部)を平定し、同年十月には額魯特[エルト]蒙古四部(靑海新疆北部)の長を承德の避暑山莊に招いて大いに宴を開いた。そして皇祖が喀爾喀[カルカ]を平定した時多倫諾爾[ドロンノール]に彙宗寺を建てゝ人心を歸一せしめたのにならひ、この寺を起すことにした。蒙古では當時旣に黃喇嘛敎を信仰してゐたので、西藏の三摩耶廟の制を教んで建てたといふが、それほど西藏色が濃厚とは思へない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●喇嘛塔をのせた佛殿(熱河省承德)
(普寧寺・卽ち大佛寺) 左右の鐘樓・鼓樓、それから天王殿を經て七楹の本殿前に出る。それが此の大雄寶殿で三世佛に供へたものといふ。更らに殿内の佛像背光の上方にある額には仁佑大千殿と書いてある。正面にある石の欄干、石の階級など彫刻の技巧に捨て難い所も見える。すべてが支那的風貌を示す中に、屋頂の喇嘛塔のみは西藏の面影を物語つてゐる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●月臺を見下らす(熱河省承德)
(普寧寺・卽ち大佛寺) 小喇嘛塔を載せた大雄寶殿の背後、階段を上り門をくぐつて入ると、そこが大佛殿前の月臺、臺上には五色の喇嘛塔、半ば壞れた六角の西藏式小建築などが並ぶ。左に見えるのが大佛殿の一部、遠く連なつた山岳の中から只一つ突出してゐるのは有名な罄錘峰の奇岩。正にこれ一幅の畫境である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●大乘之閣(熱河省承德)
(普寧寺・卽ち大佛寺) 大乘之閣といふのは大佛殿の名だ。閣は三層(或は五層と云ふべきか)七楹の大建築で、群小建築を拔いて一際高く壯觀だ。屋根が中央と四隅との五つに分れたのも一奇であり、これは北平の五塔寺の塔などと同じ思想から發したのだらう。この異色を示す支那式建築の前や左右には西藏風の建築が大半壞れて壁ばかり蕭然と殘されてゐる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●三眼の大佛像(熱河省承德)
(普寧寺・卽ち大佛寺) 大佛殿(大乘之閣)の中には高き七丈二尺と言はれる一大木佛が安置され、四壁には嘗て一萬の泥金佛が羅列してあつたと聞く。佛像は餘りに大きく、一望の下に全身を十分拜むことが出來ない。一階にあつては僅かに臺と巨大な足のみを、二階で腹部を、三階に上つて漸く千手と御顏とを拜むといふ有樣だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●離宮側景(熱河省承德)
承德に離宮即ち避暑山莊が置かれたのは康熙四十二年(西紀一七〇三)のことで、その後次第に增築され特に乾隆年間の大工事によつて現狀が出來上つた。山莊の周圍には石垣が築かれ、長さ十六滿里三分と言はれてゐるが、離宮建築はその廣大な地域の南端一小地區を占め、南の中央にある麗正門を入れば此の一廓が展開する。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●天宇咸暢閣の孤影(熱河省承德)
山莊内の湖東にある小高い丘の上に、今は柱と屋根ばかりになつた三層の閣が蕭然と孤立してゐる。嘗ては水際に五楹の殿があり、そこから廻廊が曲折して此の閣を周つてゐた。閣は第二層に玄武、第三層に玉皇を祀り、各層には康熙帝御書の額を懸けてゐた。そして今は無い下の殿には乾隆帝の御書の金山と記した額があつた。こゝは江蘇省金山寺の制に仿つたからである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●如意洲の風光(熱河省承德)
山莊內は人工の巧と山水の美とが調和融合してゐるのを以て名高い。特に湖岸が屈曲し風光が變化に富むのを特色とする。中でも如意洲は湖に浮ぶ中の島とも言ふべく、絕景を激賞される所だ。右方の森かげには冷香亭などの一廓、左方の林間には如意洲の正殿たる延薰山館を始め多くの亭や殿が隱見し、遠くには永祐寺の舍利塔、天宇咸暢閣までが浮んで見える。この附近は蓮花の名所だつた。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●泰山に似せて(熱河省承德)
乾隆四十三年(西紀一七七八)山莊內の地を選び、泰山の廟制に倣つて勅建されたのが、此の廣元宮である。泰山は道敎、廣く言へば支那民間信仰の大本山として崇拜せられる所。だから泰山の模倣といふのは、單に曲がりくねつた石段道を登る所ばかりでなく、深く內容までを意味する。山門を入れば仁育門、馨德亭(香亭)、邀山堂(東廡)、蘊奇齋(西廡)、仁育殿(正殿)などが整然と並んでゐる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●地下に潜る(熱河省承德)
山莊內の湖岸に沿ふ丘を利用して地中に洞窟を造り、出入口が三方に設けられてゐる。天下に敵のなかつた康熙、乾隆帝などが、こんな見苦しいものを造る筈もないと思つたら、果して湯玉麟が日本軍の飛行機を怖れた結果の仕事だといふ。松林の下を利用した所など南方の新人にでも敎はつた結果だらう。蟇ぢいさん、とんだ所に變な記念物を殘して逃げたものだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●馴鹿坡(熱河省承德)
康熙五十年、避暑山莊三十六景が選定され御製の詩、御書の額、繪圖が完成した。更らに高宗帝は乾隆十九年、三十六景を添加して詩を賦し諸臣が是に和して詩を作つた。合計七十二景になつたわけだ。天宇咸暢閣や如意洲は前者、馴鹿坡は後者即ち乾隆三十六景の一つに屬する。山莊內には至る所に人によく馴れた鹿が居るが、その馴鹿は黑龍江將軍が北滿の土民の使ふものを獻上したことから始まつた。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●安遠廟普度殿(熱河省承德)
山莊東北の山麓にある安遠廟(一般名は伊犁廟)は今でこそ大破してゐるが、嘗つては周圍に西藏風の高い牆壁をめぐらした大寺だつた。新疆省伊犁[イリ]の固爾札[クルチヤ]廟は準噶爾[ジユンガル] 族が最も崇拝してゐる黃喇嘛寺だつたが、それが叛賊の爲に燒かれて再建すべくも無かつたので、淸朝が伊犁を平定するや準噶爾族のために、乾隆二十九年(西紀一七六四)固爾札廟をまねて此の安遠廟が勅建された。廟の中核たる三層樓を普度殿と呼ぶ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●森蔭の殊像寺(熱河省承德)
殊像寺は普陀宗乘之廟の西にある。山西省五臺山は文珠師利の道場として著名であるが、その山麓の殊像寺は文珠菩薩示現の所と傳へられる。乾隆二十六年、帝は母后を奉じて其處に參詣したことから、堂殿樓閣の制を五臺山に倣ひ、乾隆三十九年の夏起工、翌年完成し、寺名も亦五臺山のものを採つたのが此の寺である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●殊像寺の寶香閣(熱河省承德)
乾隆帝御筆の殊像寺の額をつけた山門を入れば鐘樓、鼓樓、天王殿、壁ばかりの東西配殿、七楹の會乘殿、また東西配殿、その後に建つ八角重層の亭が此の寶香閣である。嘗てスエン・ヘヂン氏が此の亭を見て蕈形の屋根が柱に載つてゐると記したが、甚だ奇拔な形容である。ここも亦荒廢見る影もなくなりつつあるのは、惜しいものだ (印畫の複製を嚴禁す) -
●怪獅に乘つた佛(熱河省承德)
(殊像寺) 八角の寶香閣の中には、獅子らしい怪獸に乘つた佛像と二人の脇立との大彫刻が祀つてある。脇立の一人は支那の武人の相貌、他の一人は西域の胡人らしい。獅子に乘つた佛は乾隆皇帝の聖姿を貌どつたと民間では傳へてゐるので、さう思つて拜めば何だか似てゐるやうでもあるが、恐らく事實ではあるまい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●須彌福壽廟(熱河省承德)
(別名・札什倫布廟) 乾隆四十五年(西紀一七八〇)皇帝七旬の賀を祝ふために後藏から遙々と班禪額德尼[パンチエンエルデニ]喇嘛が來たので、この廟を勅建して住まわしめた。黃喇嘛敎は興祖宗喀巴[ツオンカパ]の後、二大弟子の達賴[ダライ]喇嘛と班禪喇嘛との二派に分れ、前者は布達拉[ブダラ]廟に、後者は扎什倫布[ダーシロンブ]廟に住む。この名稱が承德でも其のまゝ採用された。チベツト語の扎什は福壽、倫布は須彌山を意味するから、漢譯して須彌福壽廟と呼ぶ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●總持佛境
(熱河省承德) 須彌福壽廟の全景寫眞では、牆壁が壞れてゐるため、前方と後方とが別の存在としか見えないが、最も右端が碑閣、次が西山門なのだ。山門を入つて山の手の一大建築群に近づけば、石像の護る寶坊(牌樓)の前に出る。坊の額には滿、漢、藏、蒙の四體文字があり、漢文では總持佛境と記す。正に佛境に入らんとする關門であり、瑠璃瓦の多彩は、華かだつた乾隆文化を偲ばしめる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●都綱莊嚴(熱河省承德)
須彌福壽寺廟は大觀した所、支那系と西藏系との二樣式の混交した建築で、普陀宗乘之廟に似た點が多い。反曲した屋根は支那系を示し、數層の四角な壁體建築は西藏系を代表する。總持佛境とした牌樓の北に聳えた西藏式の三層壁體、これを都綱と呼び、窓毎に支那系の屋根型を附け、屋上に支那系の亭を對立せしめた所は、同じ西藏式と言つても普陀宗乘之廟とは少し異なつた風趣を示してゐる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●陸屋根を行く(熱河省承德)
須彌福壽廟の都綱樓殿は普陀宗乘之廟のそれに比べると、はるかに保存狀態がよく、三層樓上の陸屋根を歩けば、眼下に承德周邊の風光が觀賞される。南に獅子溝、灰色の石壁が蛇のやうに丘から丘へと卷きついてゐるのは避暑山莊一廓、西北には普陀宗乘之廟、東南には川を隔てて安遠廟が浮んで見える。南の足下には今上つて來た道すじの山門、碑閣、牌樓などが色美しく輝いてゐるのだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●金色の龍と海象(熱河省承德)
須彌福壽廟の三層・西藏式の都綱外廓に包まれて、此の歡喜心殿がある。上部二層の屋根は遙か遠くからも其れと眼に立つ姿、金色に輝く瓦、屋根四隅には金色の龍が體を波のやうに屈曲し、金色の海象とも見える怪獸が奇異な長い鼻をもたげて、一聲高く吠えてゐる。正に承德第一の見事な屋根と言つてよい。二層の屋根の下は三層の殿であるが、寫眞では下の一層が見えない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●瑠璃佛塔(熱河省承德)
須彌福壽廟の最も奥に一臺の瑠璃佛塔がある。普通の佛塔と異なり、第一層が八角の殿堂をなし、屋上に石の欄干をめぐらし、その上に七層の瑠璃瓦もて築いた塔を建てた。塔も亦八角、各面每に小さな佛龕を配し今も尙ほ佛像を安置してゐる。塔頂だけは旣に消失してゐるが、山莊內の六和塔のやうに寶珠をのせてゐたのであらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●普樂寺
宗印殿 (熱河省承德) 普樂寺は山莊の東北二滿里、乾隆三十一年正月工を始め翌年(西紀一七六七)八月竣工した勅建寺だ。乾隆帝は新附の民、都爾伯特(外蒙西部)、左右哈薩克、東西布魯特(共に新疆の北部)のために寺を建てることを多倫諾爾[ドロンノール]の章嘉[チヤンヂャ]國師に相談した所、上樂王佛は特輪王佛の化身で常に東嚮して人々を廣く濟度すると大藏經にあるから、その寺を建てれば人天共に歸依するだらうと答へたので普樂寺が出現した。宗印殿は寺の前殿だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●圓亭を仰ぐ(熱河省承德)
普樂寺の後方、高い方形の壇上に聳えた重層の圓亭は、承德でも最も異色を示すもので、正に寺そのものを代表し象徵する。だから、普樂寺といふよりも圓亭寺の名が知られてゐる。額に旭光閣とあり、北平の天壇建築を偲ばしめる外觀、亭が東向する所などを結び合せて考へるならば、これは天を拜し太陽を崇ぶ特異な宗敎を包藏してゐることが推察せられる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●羅漢堂(熱河省承德)
羅漢堂は山莊の北一滿里、乾隆三十九年(西紀一七七四)の建立で、諸堂の額は皆、乾隆帝の御筆だつた。山門を之れば東に鐘樓、西に鼓樓、正面に天王殿、次に東西配殿、大殿の順に並らび、建築的には平々凡々の寺であるが、最も奥の羅漢堂內に祀る五百羅漢の像は、承德では、他にない珍しい特色なので名高い。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●羅漢種々相
熱河省承德 羅漢堂はさびれて此處に五百もの羅漢が住むとは思へない程寂然としてゐる。しかし一步堂內に入つて見ると、等身より稍々大きな渡金の木像が、微笑・哄笑・瞑想など五百態の表情を示し、相貌も亦異にして見渡す限り並んでゐる。動作を示し乍ら默して聲をたてない群像が迷路のやうに續くのは愉快な半面、一脈の冷氣を覺えしめる。像はすべて海寧(杭州)安國寺の制を仿つたといふ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●赤峰の大街(熱河省赤峰)
赤峰は熱河省經濟の中心とも言ふべく、四通八達の要衝だ。承德が山間の土地狹小に困苦してゐるのに對し、此處は廣闊な平坦地を控へ、將來の發展期して待つべきものがある。 赤峰西翁牛特[ヲグニヨウト]旗に屬し、次第に漢人種が移住したので乾隆四十三年に縣が置かれ、宣統二年には赤峰直隷州となつたが、民國二年再び縣に改め、三年には大總統令によつて開埠し、日本領事館が置かれた。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●皇軍聖戰の碑(熱河省赤峰)
赤峰縣城・三道街に立つ「入城記念碑」こそは、友邦建國援助のために皇軍が嚴寒風雪を突破した聖戰壯圖を物語る好箇の記念碑だ。 熱河省に籠る反滿軍は十三萬餘に達し、戰備を盡して危機切迫したので、皇軍は友邦軍と共に一齊進擊を開始、昭和八年二月二十三日、通遼より茂木部隊は北道を坂本部隊は南道をとつて前進し、零下二十數度の極寒を冒して强行軍を斷行し、遂ひに三月二日兩部隊共に赤峰に入城したのだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●赤峰の謂れ
(熱河省赤峰) 赤峰は俗に哈達と呼ばれたが、それは蒙古地名の烏蘭哈達[ウランハタ]の略稱だ。蒙古語の烏蘭(ulagan)は紅色、赤色のこと、哈達(hata)は山、峰であるから、結局、烏蘭哈達を漢譯して赤峰としたのだ。 市街から程遠からぬ英金河[インチンゴロ]の右岸に當つて聳立する赤赭色の巍峨たる一山がある。これを紅山嘴といふ。烏蘭哈達、卽ち赤峰の地名は此の山から起つたといはれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●山下冬村
(熱河省赤峰) 赤峰は土地が廣いだけに、街路も驚くべき開濶さだ。街路に沿う家々も煉瓦壁に瓦を葺き、都市としての體をなしてゐる。 しかし郊外に出ると、泥壁、泥屋根の家が少なからず目につく。斯るカマボコ屋根とは違つて、瓦が葺けるばかりになつてゐる泥屋根の姿は、河北省而も北平の郊外でさへ屢々認める所だ。移住民の故郷を示す屋根であるかも知れない。眼近かに迫る山は紅山嘴、即ち赤い峰だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●西元寶山炭坑
(熱河省赤峰) 赤峰の東北六十五滿里(約六邦里餘)所に西元寶山炭坑、東方九十滿里の地に東元寶山炭坑がある。 西元寶山は高さ五百七十米、炭坑は李風伍氏の所有であづて、今から約七十年前に發行されて採掘を始めたが、一時中止してゐたのを、二年前より再び採掘を開始してゐる。炭質は瀝靑性、採掘法は未だタヌキ掘りの程度を出ないが、それでも一ケ月夏期十萬斤、冬期二十五萬斤の產額があるといふ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●黑水の市場(熱河省黑水)
黑水は赤峰の東南、朝陽・赤峰街道に沿ふ小さな田舍町だ。だから泥屋根の家が多くて、瓦葺の家など眼につかない。赤峰が近いから物資が素通りするので商業地として發展する機が無かつたのだ。 熱河省の田舍へ入ると、滿洲では見慣れない市が立つから不思議だ。朝鮮の田舍と全く同じ光景の市だ。市日は大低きまつてゐる。その日になれば近郊の農民が蝟集して畜產、農產物を始め手工業品の賣買が行はれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●蕭然たる喇嘛小寺(熱河省黑水)
熱河省を旅して驚くのは人里遠く離れた小高い丘の上のやうな全く思はぬ場所に、見事な寺が見出される事である。それが常に喇嘛寺であるのも一奇だ。寺といふ寺がすべて喇嘛寺なのは熱河省の一特徵と言つてよい。 寫真は黑水の南四邦里にある西院寺。丘上の寺院建築は大破して、今では山門と喇嘛塔とが蕭然と殘されてゐるのみだ。喇嘛朝はすべて清朝の沒落に伴つて急速に衰微したのである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●建平淺春(熱河省建平)
建平は通稱を新邱(炭坑の新邱に非ず)といひ、朝陽と赤峰との中間に位した要地で、南敖漢[アオハン]旗頭に屬した。四面を丘陵が圍み、東には伯爾河が流れてゐる。市街の周圍は土城を繞らし、南北二門あり、それを通ずる一條の南北大街が目貫き通りなのだ。建平に縣が置かれたのは宣統二年(明治四十三年)であるから新しい街ではあるが、漢人種が入りこんだのは百六十年も前の乾隆年間からであつた。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●碾子薄暮(熱河省民俗)
碾子[ニエンズ](Nien-tze)とは目かくしした驢馬がぐるぐると絕え間もなく牽いて廻つてゐる石臼だ。農家の庭の片隅み、農園の一隅、或は小屋內(碾房)などに此の碾子が置かれてゐる。 滿洲の田舍宿、燒鍋(燒酎屋)などに宿泊すれば朝未だ暗い中から碾子の音に目を醒まされ、そして夕方の薄闇まで働きつづける可憐な驢馬を見落すことはないだらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●慶祝の高脚戲(熱河省民俗)
滿洲國皇帝、御即位大典慶祝のために、滿洲至る所、都鄙に論なく、あらゆる方法の催しが行はれた。寫眞は熱河省內で感激の裡に記錄した一例だ。 高脚戱[カオチヤオシー](Kao-chiao-hsi)は關帝廟、天后廟などの祭典を始め、あらゆる慶賀の際に好んで行はれる。或は劇の服裝、或は男女樣々の世態風俗を示し、男が女し尻をふつて步く纏足のエロチツクを表現するなど、一般大衆の熱狂して迎へる踊だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●河舟を造る所(熱河省下板城)
下板城は承德の東南八十滿里の地、灤河に臨んで早く康熙乾隆年間から知られた舟着き場だ。 今のやうに自動車道路が開發されず鐵道のなかつた二三年前までは、熱河省に於ける貨物運搬の唯一の大道が灤河だつたのだ。貨物ばかりでなく旅客も亦舟運の便によつた。今後と雖も此の舟運は注目すべき交通運輸法だ。遠からず下板城には鐵路が通ずるだらうが、さうなれば益々水陸聯絡の要點になるだらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●圓倉の並ぶ風景(熱河省下板城)
圓筒形の泥壁に圓錐形の藁屋根をのせた穀倉を假りに圓倉(マロクラ)と呼んで置かう。マロクラといふ名は日本の上代に用ゐられたものだ。支那の上古もあつた廩といふ穀倉が是に似たものだつたらう。 圓倉は滿鐵沿線以西に廣く行はれて居り車窓からでも農家の庭に屢々見ることが出來る。少なからぬ數の圓倉が並んでゐる家があつたら、それは燒鍋、卽ち燒酒屋だと思へば大抵間違ひない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●平泉を見下す(熱河省平泉)
平泉は俗に八溝といひ、喀喇沁[カラチン]中旗に屬し、雍正八年(西紀一七三〇)漢人蒙古人間の裁判事件を處理するために八溝廳理事通判を設け、乾隆四十三年には平泉州に陞し承德府に隷屬してゐたが、民國二年に平泉縣となつた。 だから平泉は少くとも雍正以前から漢人が入り込んで市街を形成したわけで、熱河省としては古い街の一つだが、位置が南に偏在し、山が迫つて背後地が限られてゐるので、赤峰の發展につれて次第に衰微する傾向だつた。しかし滿洲建國に伴ひ今では再び活氣を呈して來た。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●國旗の見える街(熱河省平泉)
平泉の市街は灤河上流の一支流に臨み、狹長な谷間に開けてゐる。只一つ長蛇のやうに屈曲した大街・大馬路に沿うて伸びた細長い街だ。大街が承德、凌源などに通ずる幹線道路になるのだ。 滿洲建國以來、平泉も活氣を加へ、今では少なからぬ日本人が入りこんで料里屋やカフエーなども珍らしくなくなつた。物靜かな田舍街も新裝一變する日が近いことを思はしめる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●平泉の清眞寺(熱河省平泉)
淸眞寺とは回々敎(モハメツト敎、イスラム敎などともいふ)の寺のことで、何處にあつても總て同じ寺名だ。淸眞といふ文字は回々敎の宗敎的特徵を示すもので、回敎徒は回々敎の代りに淸眞敎と言ふことが多い。 回々敎は偶像を崇拜しないから、他の寺のやうな彫刻類が少しも祀つてない。禮拜日(金曜)に集まり先づ淋浴して身體をきよめてから、大殿でアラビヤのメツカに向ひ禮拜式を行ふのみだ。寫眞が示すやうに、大殿の奧には塔がついてゐるのが普通だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●金山を掘る(熱河省平泉)
密雲鄕務泥窪子の金山は平泉から東方三邦里半、國道に沿う火廟からならば北方一邦里半の地、繆世侯といふ南方人によつて發見せられ、開鑛したのが光緖二十一年(西紀一八九五)のことだといふ。 採鑛口が今では二三百に及び、鑛石は石臼で粉碎した後水洗して砂金を採るといふやうな原始的な處理法によつてゐるのみだ。しかし科學工業的處理法と經營とが採られる日は遠からぬここと待望する。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●雪の凌源(熱河省凌源)
凌源はもと塔子溝と言つたが街の附近には塔がない。喀喇沁[カラチン]左翼の地であつて、乾隆三年(西紀一七三八)に塔子溝廳が置かれたが、同四十三年には建昌縣と改名し、民國になつてから同名が別にあるといふので、民國三年達淸縣と改めたが、其れが未だ用ゐられない中に又々凌源縣と改稱した。朝陽、承德、赤峰、綏中に通ずる交通の要路を占めて居り、前途洋々たるものがある。寫眞は西門を示す。堅固とは言へないが城壁が繞ぐらされてあるのだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●關帝廟雪景(熱河省凌源)
凌源・東街の關帝廟は乾隆七年(西紀一七四二)に創め建てられた。關帝廟は三國志に出て來る武將關羽を祀る。明代までは關王だつたが、淸朝が明を討つ時に加護顯著だつたといふので關帝の位に昇つたのだ。武將だから軍人の祀る神だつたが、同時に魔よけの神になることから一轉して財寶を守る神となり、今では財神として一般民衆特に商人間で最高の崇拜を受けてゐる。故に市街が開けると先づ第一に建てられるのが此の廟で、關帝廟が都市の古さを示すバロメーターになる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●萬祥寺(熱河省凌源縣)
凌源の東南三十滿里・大鹿溝といふ部落に珍らしく大きな伽藍・萬祥寺がある。嘗て乾隆帝が此處に駐踝されて、萬祥寺と書いた御筆の額を賜はつたといふから、早く此の地に建てたれてゐた大寺であることが知られる。 山門、鐘樓、鼓樓を始め諸殿堂が並び、奧に至るに從つて高地に建てられ、而も奧の殿堂が二階建てになつてゐるので、まことに壯大な外觀を呈してゐる。純支那式の建築ではあるが勿論喇嘛寺だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●熱水湯といふ溫泉(熱河省凌源縣)
熱水湯は凌源の北五十滿里、喀喇沁[カラチン]左翼旗に屬して古來知られた溫泉だ。 熱河省內には溫泉が多い。中でも承德避暑山莊內の熱河と刻んだ石碑が立つ場所は、非常に廣く知られてゐるが、あれは古くから殆んど溫みのない泉だつたので、康熙帝の行幸されたのは別の溫泉である。只どの溫泉も設備が不完全極まるもので、古來著名な熱水湯なども此の有樣だ。しかし熱河省の伸展と共に保養歡樂の地として一變する日も近いことだらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●省公署の前街(吉林)
吉林は吉林烏喇[チリンウラ]といふ地名から起つた名稱で、滿洲語では吉林[チリン]が沿うこと、烏喇[ウラ]が大江だから、大江に沿う都といふ意味だ。此の地方は淸朝初期に寗古塔の將軍が支配してゐたが、康熙十五年ここに將軍府が移駐されて以來、北滿東部の首都として發展した。明代の宣德年間に黑龍江下流方面まで遠征するため軍艦を此處で造つたので古名を船廠といふ。以て昔から木材の集散地だつたことが知られる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●新時代の片影(吉林)
吉林城は松花江が南を流れ、他の三方に城壁が周ぐらされてゐる。城壁には嘗て八門を開いてゐたが、大正元年吉長鐵路が開通するや、驛と城內との連絡のために西北にまた一門設ける必要が起り、他の門とは違つた形式のものが建てれられたのが新開門だ。その後また改築して寫眞のやうなものが出來上つた。新文化は先づ門から始まるとでも言ふべき所だらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●商業街を覗く(吉林)
人口十五萬以上といふ大都市の熱鬧街區は少くないが中でも商業區は市を東西に貫く河南街、糧米街、及び南北に通ずる北大街、それから西部の中心地西大街の四である。寫眞は河南街、比較的古風な趣の多い吉林でも、商業街には新しい空氣が流れ込んで洋風に似せた店頭の構へが並ぶ。雨が降ると街路は泥溝と化すが、その時は下水溝の上に置いた板が最も便利な人道になる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●古俗の名殘り(吉林)
吉林は木材が豐富だから、大きな丸太を立て厚板いを揷んで造つた板塀を到る所に用ゐてゐる點が一つの鄉土色だ。屢々瓦の代りに板を葺き、あらゆる部分に瓦も煉瓦も使はず、木材のみを以て塀から門まで造つてゐる例が眼につく。斯る風は遠く淸朝の初期は勿論のこと、金代頃にも行はれてゐた古俗であり、純滿洲式に近いものと思はれる。寫真は昌和胡同の一例だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●江岸の風光(吉林)
吉林は以前から滿洲の京都と言はれた。もとより京都の山紫水明には遠く及ばないが、近くに多くの山があり、また大きな松花江に望んでゐる點から、箱庭式の京都を廣野の滿洲風に變へたものと觀て、滿洲の京都といふ言葉はまた一見解としてよい。吉林の風光は松花江によつて活きて居り、遠く霞んで見えるカトリツク敎會堂、近く廟前に立つ旗杆など、四時これ一幅の畫境だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●木材の税關(吉林)
吉林の城下をめぐる松花江 流れの源幾百里 長白山の峰の雪 とけてマタ筏に身をまかす。(吉林筏節) 一時の吉林は上流から下る筏の群で松花江の水が見えない位、安東の筏の比ではなかつた。流下する木材からは稅金を徵收する。その稅率が急激に增大されて軍閥の私腹を肥やす絕好の材料になつたのも、今では昔の夢だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●松花江鐵橋(吉林)
昭和三年吉敦線が開通して、今迄獨木舟で渡つてゐた松花江を、鐵橋で一瞬に通過することになつた。そして又、流下してゐた筏の影が次第に消えて、木材は汽車による事になつたのと、閥が木稅を高くするので、却つて林木の伐採が中止され、吉林市民の生命線がおびやかされ悲鳴を擧げるに至つた。斯うした種々な事件が今では物語りになつて來た。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●北山よりの一望(吉林)
城外北山[ペーシヤン]は吉林第一の名勝地として知られてゐる。山とは言ふが極くなだかな丘で、樹木の多い傾斜地を利用して建てられた亭や廟が點々と散在し、一大遊園地をなしてゐる。北山で先づ詣るのは崖に望んで建つ關帝廟だ。附屬の休憩所の二階から俯瞰すれば、全市は一望の下に展開する。關帝廟を出て上に登れば藥王廟、更らに進めば玉皇閣がある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●北山の玉皇閣(吉林)
北山の最も奧にあるのが玉皇閣だ。東南と西南との隅にある二階建の樓が外觀上の一特徵をなしてゐる。玉皇閣とは玉皇大帝を祀る所で、大帝は紫微宮に在り、歲末家々の竈神が一家の成績表を携へて上天報告するといふので竈祭が行はれるが、その報告を受けるのが實に此の神であるから、道敎では最も高貴な神樣なのである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●玉皇閣の牌樓(吉林)
天下第一江山といふ牌樓の額は些か大げさだが、滿洲第一江山とすれば詢によく吉林の風光を道破したものと言へよう。玉皇閣の山門を入れば此の牌樓があり、次に朶雲殿とした大殿が聳えてゐる。大殿の樓上に玉皇大帝が祀られ、一階には娘々神を祀るが、この廟が大眾の參詣により非常に雜沓するのは、むしろ娘々神の祭禮の時だから庇を貸して主家をとられた形だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●牡丹江驛
牡丹江驛は牡丹江右岸にある東支東線の一驛で、附近には農產の豐富な寧古塔地方の沃野を控へ、以前から舟運により集められた穀類の輸送地として海林と共に重要な地點であつた。此頃は更に建設途上にあると共に圖寧線の終點を約され、益々その發展を豫期せられて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●牡丹江展望(一)(掖河より)
薰風さわやかな橋欄から俯瞰した靑葉の江永、長煙一空拭ひさらわれた水面には漣さえもない。對岸幽かに展開せらるヽ沃野の一帶、江岸につながれた筏の映帶、大自然の靈筆のみが描き得る一幅の墨繪である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●牡丹江展望(二)(掖河より)
一碧萬頃の江面に流るゝともなき扁舟の投影、模糊として地平に展がる平野の遠望を眺めても、その昔『丹江十里好陂塘、曳杖逍遙乘晩凉』と詠はれた當時の渤海制覇の華かさを愢ぶよしがもないが、近く第二のハルピンとして江岸一帶杖を曳く人々の群を迎へるも遠い約束ではあるまい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●水賣り(甯安)
渺々とした牡丹江面は油を流したやうに滑らかである牛と驢馬のコンビに箱車を曳かせた野趣、湲やかな漣に投げられた影、遙か彼方に淡くひかれた水平の描線、眞夏の晝下りの一時はのどかである。汲み出された水はやがて街の人々の夕餉の仕度に供せらるゝであらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●踏切り(牡丹江岸掖河)
ふとカメラマンの頭をかすめたものがあつた、何か遠い記憶の中から呼出されたような氣持ちで三脚を立てた。舊式のガス燈形のランプ、さゝやかな踏切と水運馬車、淸い流にうつる靑々とした堤の草、出來たのがレンズに映じたこのスナツプである。魚籠を下げた大公望の姿が見えぬのが物足り無い。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●牡丹江風景
(下馬連河) 東北滿洲は時運の趨移と共に日々に伸展を加へ、鐵道の新設を見ると共に生氣を加へて來た。箱庭の如く河中に點綴せる浮島の風光は昔ながらなれど、江岸に忙しき建設工事はよく文化への進出を語り、賑かに響く鑿の音は將來の伸展を物語る。近く此邊一帶は重要な地點となる日も遠くはない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●依田大橋
(甯安港外) 此橋は事變當時兵匪の巨頭王德林の暴虐から住民を救ひ、その善政はよく民意を沾し、治安維持に産業發展等につとめ、住民に敬慕せられた依田將軍の頌德記念の橋である。大同元年新政權謳歌の中に作られたもので、殘された功績と人々の追慕は橋の名と共に永く讚へらるゝであらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●中央通り(牡丹江市街)
牡丹江の街は先頃迄は渤海の覇圖、金の盛業の跡も昔語りにしか過ぎぬ僅か千餘の人口を有する小邑に過ぎなかつた。圖はその中央通りで舊態其儘の支那町であるが、着々工作を進捗しつゝある建設事業が始められてからは、異常な進展を見て今は人口一萬餘を算し赤い灯靑い灯さえもチラ(チラ)見るやうになつた。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●聖戰記念碑(牡丹江市街)
嘗ては暴政にあえぎ苛斂誅求に脅され、次で匪賊のために荒され切つた此地方一帶も、事變と共に皇軍の膺懲となり依田混成旅團の奮戰と活躍により悉く掃蕩され、人心安靜に歸し生業に就き今日の平和を迎へるに至つた。一幹の碑はそれを記念し建てられた忠靈塔である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●牡丹江橋(掖河より)
長江十里石巖十里と稱へられ遊子の杖を曳いた遠い渤海の燦爛たる文化の昔から牡丹江を中心として幾度かの靑史は繰返された。昔ながらの江水を涉る一抹の淸風は江岸の碧翠と共によく旅愁を沾ほす、翠綠滴る靑葉の下遙かに大鐵橋を望めば轉た今昔の感に堪えぬ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●鳥瞰の大黑河市街(大黑河)
大黑河は露支時代には貿易港として愛琿に次ぐ江岸の二大貿易港であつたが、滿洲國出現後は縣廳所在地となり他地方よりの移住も加はり遙かに愛琿を凌駕し異常の發展を見るに至り交易の上にも國防的にも重要な街となつたが、日滿蘇の微妙なる關係がこの街を包んでからは、貿易は杜絕して行交ふ人々の動きの中にも國境らしい緊張のみが無意味に流れて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●中央大街(大黑河)
赤煉瓦造りの南店が兩側に整然と並行した靜かな街並は、今迄索漠なる北滿の幾日かを續けた旅人に沾ほいおある落付いた氣分を與へる。餘り問題にされなかつた處で昨年迄はロシヤ流れの邦人七八十名のみであつたが、本年に入り俄然注視の街となると共に人口壹萬餘に增加し邦人の進出するもの五百餘名を見るに至つた。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●商會の事務所(大黑河)
山東移民の根强い植民力は北滿のこの最端に迄延びて居る。生業者の殆ど全部がこゝを拓いた人々のため所謂山東財閥が集團の中心となり、土着の住民は何等經濟的資力なく、この華麗なる建築を中心として輸出入は勿論地方產業の開發も總て彼等の手によりて生れて來る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●砂金收買所(大黑河)
黑龍江省でも愛琿縣から上流一帶に涉つて砂金の埋藏するもの多く、江岸一帶の住民はその採取によつて生活を營んで來た。然し取引の大部分が密輸による物々交換を行はれて來たので產額の正確なる數字は不明である。『收買砂金』の看板を出した家が今でも並んで居るが、店頭を飾る極彩色の招牌も近く統制と共に名殘を失ふ事であらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●江岸の通路(大黑河)
江岸數個所に牌樓形の小さな門が建てられてある。もと露支交行の道路で、川を隔てた兩國の貿易は皆この門を通して行はれた。對岸に望まれるブラゴコ市とは僅か八百米の川幅で、望遠鏡で見ると三々伍々河岸を逍遙する人々の姿も指呼の間に見え如何にもなごやかな情景であるが、嚴重なる監視と人々敏感なる神經は如何にも國境らしい氣分が覗はれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●對岸ブラゴエ市を望む(大黑河)
大黑河を口にする人には必ず對岸ブラゴェチェーンスク市を聯想される。流れを隔てゝ綠樹の間に隱見せらるゝ淸楚な純歐式の建築もロシヤらしい。東部西比利亞の國防上樞要の地で、ゼーア河交流點にあり、舟運に冬季氷上の取引に唯一の交通港であるが、滿蘇の關係が緊張せる監視の下にあるため目下は交易は殆んど斷たれて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●賭場(大黑河)
此地方は地味な農耕よりも文字通りの一攫千金の夢を抱き砂金採りに沿岸に集つた人間が多い、賭博は彼等の通有性で趣味を越した生活の一部とさえ思はれる。緊張した顏、銳い眼、歪んだ神經の尖りの中に、夜の大黑河は隨所に官許の賭博が開かれて、砂金、遊興、賭博と黃金の妄執の渦に更けて行く。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●場末の料理屋 (大黑河)
ふと細い路次で安いヘツトと汗の香に息づまるやうな小料理に落魄したロスの女將さんを見た。赤色テロは培はれた國土への愛惜を捨てた多數の越境者を出した。身に逼る生活の脅威は、奴婢と冷遇した人々にさえ膝を屈せねばならぬ時勢の趨移となつた。暗い電燈に映る薄化粧もニラ臭い客相手にと思ふと慘々しい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●江岸の碼頭(富錦)
松花江岸の貿易港富錦の碼頭は、本年漸く完成新裝せられたもので、昔から江岸を通る船往來の人々の船着場として旅情を慰めた處である。取引は上流ハルピンへの輸出入のみでなく今後ウスリー、黑龍兩河共密接な關係があるので將來を刮目されて居る。輸出の主なるものは農產阿片等で輸入品の殆全部は日本製品であるのもうれしい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●富錦市街(富錦)
富錦は舊名富克錦と云ひ樺川と共に附近一帶は渤海以來純粹の靼鞨人の居つた處で、淸朝初期迄は「黑斤人の本據」と云はれて居た。宜純元年富錦縣の獨立と共に縣公署を置かれ、ハルビンに次ぐ江岸の商工中心地貿易港として有名になつた。人口三萬五千餘、奧吉林の主要な都邑で邦人の進出も多く將來の發展を約されて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●見張臺のある門(富錦)
銃眼のある望臺に土囊を積上げて見張りする兵隊さんを見るとノンキそうだが、以前如何に匪賊に惱まされて來たかゞ嚴めしい模樣で想像される。今でも郊外には夜間時々襲來するので城門が夕刻から全部閉されるが、皇軍が駐屯してからは町の住民は安らかな夢を結ばれるやうになつた。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●小門の並ぶ路次(富錦)
北滿でもこの沿岸一帶は匪賊の猖獗甚しかつた處で、中央勢力の及ばぬため地方土民が他の匪賊を防ぐため自衛的に集團を組織して來た。阿片の栽培が農家の七割を占めてる關係上阿片地區防備のため他の浸入を防いだのが他から見れば所調煙匪となつたのである。小さな路次の角々に建てられた門は皆夕刻から外匪を防ぐために嚴重に閉められるのである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●郊外の廟(富錦郊外)
滿洲の旅をつゞけた人々はどんな邊陬の僻地にも不相應な廟のあるのをよく見る。富錦郊外周家屯の永平寺で、一時顧るものもない廢寺であつたが地方に惡疫流行の際靈現あらたかなものがあつて修理されたものである。美しく彩られた化粧瓦と怪奇な屋根の飾甍は、嚴かな信仰を表すかのやうに鎭座して居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●町裏から覗く(富錦)
富錦は文字通り富有な町で相當の資產家や商館があり、大部分は山東移民の營々辛苦の結晶である。河筋の中でも一番港らしい情緖のする處で到る處に煙館と賭場があり、表通りをつなぐ古風な田舍らしい町裏にもエロ氣分が流れて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●木材の陸揚げ(富錦)
松花江の上流一對は北滿材木の寶庫と唱へられるで處日々江を下る筏はその主要なる輸送機關である。のんびりした筏師に悠々と幾日かを流されて來た材木は江岸で解體せられて陸揚げされる、馬に木材を綱で縛りつけて巧な掛聲で陸に揚げて行く呼吸は頗る妙をえてるものである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●大きな鯉(富錦)
北滿の河沼には種々な淡水魚が漁澇される。松花江の鯉はその中でも素晴しいもので、潑刺たる蒼黑を帶びた銀鱗の跳躍する樣は見事なものである。大きさは一尺前後から二尺以上のも珍らしくない。抱えて居る肥大漢と對照すると面白い。よく滿人やロシヤ人の食膳に供される。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●農家の午時(富錦郊外)
半日の流汗を拭ふてひと憩みして居る農家の午時である。とつたばかりの葱を嚙みながら愛兒と嬉々としてる老頭兒の顏の皺には、都會には見られぬ純朴な平和が覗かれる。昨日迄匪賊に虐られつゞけ疲弊に喘いで來た農民にも、今は治安に惠まれて一陽來復の春の生活が甦つて來た。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●松花江の曳船(富錦附近)
靈峰白頭山に源を發し黑龍江に合流する迄流域二千數百キロ、洋々たる水を堪えた松花江は北滿の商業上交通上重要なる大動脉として流れて居る。十一月より四月に至る結氷期は、平坦な安全路として車馬や橇が堅氷の上を交通する。五位鷺や鷗の飛交ふ江面を旅客や貨物を搭載して小船を曳ひつゝ流れる興趣も又一しほである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●哈爾濱停車場(哈爾濱)
歐亞連絡の一驛として哈爾濱停車場は交通上重要な存在である。伊藤公が犧牲の血潮にちぬられたプラツトホームを踏む人々には新たなる事變の追憶を呼ぶと共に、又旅の者らしい雰圍氣の中に淡いコスモポリタンの旅愁を覺える。構內の一隅、燈明淡くゆらぐ聖像の前に、憔悴した顏に信玄袋を下げて額つく白系らしい老人の姿にも國亡きものゝ哀れさが覗れる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●キタイスカヤ街(哈爾濱)
帝政露西亞の野望は四十年前の一寒村を、北滿の中心地としての今日の哈爾濱の偉容に築き上げた。計畫半にして革命起り更に滿洲國の進出となり、今や日滿蘇三國をめぐりて政治的にも經濟的にも樞要なる地點となりその逐鹿場となつた。最近附近村落を合せて特別市制敷かれ人口四十萬餘商工業の殷盛を極めて居る。圖はその商業中心街キタイスカヤ街である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●傅家甸の盛場(哈爾濱)
傅家甸は過去四十年間に江岸の一寒村から今日の發展を見た大哈爾濱の一角で、往年附屬地居住を許されず江岸の濕地に追込まれた支那人が根强い努力で築上げた純粹の支那街である。一步この一角に足を入るれば櫛比する大廈の中を輻輳する車馬と肩摩の雜踏とは如何にも支那町らしく、所謂ハルピン氣分とは全然趣を異にした感がある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●烈士の碑(哈爾濱郊外)
東亞の風雲急をつぐる頃、沖、橫山外四氏が松花江支流嫩江の鐵橋に要路の爆破を企て、不幸官憲の捕ふる處となり悲憤の銃殺に刑場の露と消えた。この流血の恨を殘した聖地に遺靈を祀り碑がたてられた。偉靈を偲ぶ香華の煙の中に嚴然と聳立する碑は、新にその附近に殘る聖戰の勇士の遺跡と共に今も尚護國の鬼となつて遙かに祖國を護るであらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●公園の朝(哈爾濱)
復活祭が終ると間もなく哈爾濱には夏が訪れる、北滿の强い陽ざしが新綠を明るく照り返す頃になると、散步好きなロスは老幼男女街頭に江岸に公園にと進出する。三々伍々一家團欒の集ひに乙女の靴も輕やかに、或は樹間に戀を囁き漫談の中に亨樂は夜半に迄も續く。これは埠頭區の公園の一景で、白樺で造つた小亭のあたり鮮やかに綠葉に照る淸々しい陽光は若い心をそゝらずにはおかぬ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●極樂寺山門(哈爾濱)
新市街のモストワヤ街を北の方、郊外の墓地の方に步を進めると欝蒼たる綠樹に圍まれた一廓がある。極樂寺と云ふ支那寺觀で、大きな山門を入ると、兩側に鼓樓と鐘樓とが綠葉參差の間に華麗な姿をして屹立して居る。都塵をさけた如何にも靜邃の氣のする寂境である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●ニコライ堂(哈爾濱)
昔から露西亞人の生活の中には宗敎が根强く培はれて來た。帝政の複活は今では痴人の夢語りに過ぎぬが、隨所に聳える高い塔の尖端と圓いドームが綠樹の間に隱見するあたり、夢は尙此の法悅の內に殘つてる。美しい五彩のガラス窓に頃、昔のまゝに寺々から告げ渡る夕の鐘に祈る人々の胸には一しほに淋しい響を傳へる事であらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●街頭の犬賣り(哈爾濱)
綠の街路樹の間に、舗道に並べられたベンチに憩ひながら暢氣に物語る路傍の人、その間を縫ふて歩くラツシユアワー時の香水の渦、淸々しい花を賣る娘、落魄の老婆らしいのが街頭に犬を賣ふベンチ……大通りの一と時は慌しい。犬を自慢の一つにするロスには愛犬家が多く輕く口笛を吹いて犬を撫でるユーモラスな少年も大方はその仲間であらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●舊劇場の跡(哈爾濱)
滿洲事變後は濃艶なキヤバレーにうたはれた『哈爾濱夜話』の情緖も殆んど精算されたとは云へ、街から街へと流して步く彼女等の姿には未だ廢頹的な洗練された美が覗はれる。これは亡び行くものゝ殘した帝政時代の劇場跡で、華かなりし絢爛の昔も失せてキタイスカヤ街の一角にデパートして曝されて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●夏の松花江岸(哈爾濱)
永結した松花江に春が甦ると間もなく北滿には夏の日が照る、長い鐵橋のあたり廣い川幅にボートを浮べるのは海の遠い人々には唯一の亨樂である。江岸の水浴場に厚化粧の女のエロが白日に曝される頃になると、ヨツトクラブも開かれ江面はボートで蔽はれる。一家總出の團欒に或は戀人の腕を片手にオールは輕く江面を滑る。夏の松花江岸は歡樂の渦に賑ふ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●扁額の門(海倫)
文字の國らしい美辭麗句の扁額で飾られた門を這入ると泥濘の街路をはさんで海倫の街が並んで居る。僅々三十年位の間に出來た新興の都市で特に呼海線の開通と共に急激に進展した處、人口三萬餘、附近一帶の特產市場として大商人が軒を並べて居る。梟雄馬占山が假政府を樹立し虛勢を張つた處で有名だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●呼蘭の町(呼蘭)
呼蘭は呼蘭河の左岸にあり南北に長く東西に狹い町である。遠く金時代からの北滿隨一の古都で一時は地方で有數の都邑として繁榮したが、呼海線の開通と共に物資の集散減少し衰微して今日に至つた。現在人口三萬計り、支那氣分の豊かな町として落付いた空氣の中に忘れかけらやうな支那特有の建築樣式や街頭の裝飾などが古い歷史を物語る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●四望亭(呼蘭)
これは呼蘭西岡公園內にある西望亭で、町の歷史と共に相當に舊いものと言はれて居る。此地方は從來匪禍に惱まされて來た處であるが今は治安も平定され、公園にも楚々たる遊步の姿も見受けられる。園內の榻に倚り遙かに下瞰すれば、呼蘭河の流れは濁流なれど一望の內に蜒々銀蛇の如きうねりを見せて遠く彼方に消ゆるあたり北滿らしい壯大さが味はれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●石人の像(呼蘭)
往昔現在の石人城驛の西方二支里計り離れた處に古城子があつて、その城內に男女二基の石人と石馬が祀られて居つた。いつの頃か一農夫がこの石人の下半身を切離し打穀臺に使用せんとすると、石馬が驚き奔走し人々を傷けたため村人は石人を崇りと畏怖した。後年これを呼蘭に移したのがその儘保存せられて現在に至つたと云ふ。昔語りにありそうな傳說である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●路傍の店先き(海倫)
由來北滿は惡路で有名だが、海倫は地盤の弱い地に新らしく生れた街だけに特に雨期の泥濘と晴天の紅塵とは旅行者を惱ませる。頭から照りつける陽光を浴びた晝下り、けば(けば)しい彩色の裝飾をした軒並の路傍の小さなデパートに雜貨や飮食物が塵にまみれてるあたり、ニラ臭い油の香を嗅ぐと奧地を旅行して居る自分の姿がはつきり意識される。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●綏化の舊市街(綏化)
綏化は呼蘭に次ぐ北滿での舊い町で、附近一帶より生產せらるゝ大豆小麥等の農產の集散地で濱北沿線の重要な驛である。人口二萬餘、圖はその舊市街の一部で特產商の昔ながらの嚴めしい門構が軒を列ぬるあたり如何にも古い沾ひがある。町の內には華麗な古廟や舊式な招牌などが隨所に見られる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●大天主堂(海北)
海北は三十年程前から始めて移民を見てから、肥沃な地を慕ふ移住者で數年の後には立派な町が出來た。當時單身乘込んだ佛國宣敎師が該博な智識を以て大天主堂を中心に布敎の傍ら農業醫術等を敎へ自治を指導したので純然たる自治制の町を見るに至つた。住民の九割迄がその信徒である。この邊陲の地に十字の尖塔を望む時奇異の感を抱くと共に殖民政策と云ふ上にも何か敎へられる所があるやうに思ふ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●發展途上の街(北安鎭)
先頃迄は餘り顧る人もなかつた一寒村北安鎮の町も、濱北、齊北兩線の連絡點となり殊に黑河線の工事が開始せられてからは、鐵槌と鑿の音の交響の中に續々と日滿人の移住を見て賑やかな中に發展へと急ぎつゝある。今迄は不便であつた兩線以北との經濟關係も結ばれて、これからはその地方の物資集散地となり交通の中心ともなつて將來を約されてる町である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●白樺の幌馬車(二站附近)
唯見る廣漠たる中に車輛を沒する泥濘の一筋道、遠く奧北滿から默々とした一列の馬車が幾日も續く、二站附近の一景で全くどこ迄つゞく泥濘ぞである。白樺の皮で被はれた蒲鉾馬車は北滿ならでは見られぬ情景である。干戈を交ふる幾旬日、來る日も來る日も惡路に苦鬪を續けた戰士の艱難が一しほ身に沁みる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●物々しい招牌(泰安)
飾窓のない店頭では大げさな街頭の裝飾で顧客の眼をひく、雌雄二頭の龍が嚴めしい恰好で街頭に躍り出てるのは藥屋の看板で、珍奇と誇大を好む國民性の一端が現れて居る。五層の樓は寶龍と稱される金銀細工屋の招牌で、いづれも宣傳上手な販賣戰術の廣告である。舊い町には未だこんな國民性と云ふやうな根强い意識が殘されて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●白城子(洮索沿線)
白城子は舊名洮安と言ひ東蒙物資集散の市場として知られて來たが、四洮の終點、洮昂、洮索の起點となるや地方交通の中心となり益々賑やになつた。往昔砂漠の中に一本の欝蒼たる榆樹あり曠野を橫斷する旅人の指標となつたが、日を經るうちにその下に集ふ人々によつて、樹下にさゝやかな褧落が生れたのがこの町の始めである。その樹は今も枯木のまゝ保存されて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●葛根廟全景(洮索沿線)
葛根廟の驛を距る約三粁の處に展開せられた丹碧の伽藍が葛根廟である。寺名は梵通寺と稱し、現在札薩克圖旗の菩提寺で明代の創建と云はれて居る。規模の宏壯堂宇の雄麗は、背にしたる興安支脈の綠の一連に映じて一望遮るものなき草原を望む處、自然の勝景と共に一大偉觀である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●葛根廟本堂(洮索沿線)
これは葛根廟の本堂で、濃き丹碧に彩られた壁や金色燦然たる金塔の照光など、結構の壯大はよく喇嘛敎の隆盛を物語り、所謂枯淡な赤衣の僧侶はよく忍苦の修行を思はせるにふさはしい。然し涯りなき草原の彼方に夕暮の迫る頃昔ながらの斜陽は金色の塔を反映するが、唯蒙古幾星霜の文明を物語る考古館のやうに思はれ今は宗敎的に感激を齎す何をも感ぜられぬ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●喇嘛街(葛根廟)
喇嘛街は葛根廟に居る千餘名の喇嘛僧が起居を營む僧房の街である。本堂の兩側に縱二十列橫七八列に並ぶ支那式の泥家屋で圖はその一部分である。沙漠の空に星の冴ゆる夜などは、密敎の行者として無味乾燥の中に禁斷の生活をつゞける僧侶も寂照の法の光を迎ぐ事であらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●懷遠鎭(洮索沿線)
懷遠鎭は、以前は王爺廟と云はれ屯墾軍が駐在してから大きくなつた街で今では洮索線中白城子に次ぐ主要驛となつた。主要街には特產商が軒を並べて居るが土家が多く「土の街」と云つた感がする。町名を生んだ王爺廟は西側小丘の中腹に殘つて居るが、兵焚にかゝり荒廢されたまゝで宏莊なりし昔の姿を偲ぶよしがもない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●蒙古の醫者(洮索沿線にて)
蒙古は氣候が不順で惡疫は不斷に流行する。しかも衛生思想のない住民は、末だに木根葉皮の漢法醫や幼稚な喇嘛醫の療法に賴つて居るので亂暴さに一驚を喫する。これも蒙古で拾つた御醫者兼藥屋さんの門構で、業々しい金看板には仁術にふさはしい美字があるがこの先生も大方は脉をとつた事もない白髭の國手ではあるまいか。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●泥の家(洮索沿線にて)
建築材料の乏しい文化の低い此地方一帶の民家は、凡て泥土で造られた平房と云ふ四角な平家である。夏期は包と共に遊牧移動する住民が、寒を凌ぐために固定包を造り漸次そこに永住の地を定めたのがそれである。枯草と泥土をねり合わせ煉瓦のやうな角形のものを造り、これを積上げて四角な平房が出來上り住居となるのである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●英靈を弔ふ(索倫郊外)
懷遠鎮より洮兒平野を西北に約十里程行くと草原の中に蘇鄂公府がある。今は屯墾軍の姿もなく唯泥屋の點綴する一部落であるが、昭和六年六月事變の人柱となつた中村、井杉兩氏の遭難地として知られて居る。附近札賚特王府の小丘の上、草原のつくる處に墨痕鮮やかな墓標が一基建てられてある。雄圖空しく興安嶺の花吹雪と共に無念の死をとげた烈士の心情に涙ぐまるゝ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●索倫の町(洮索沿線)
蘇鄂公府から遙かに續く興安嶺の起伏を眺め、或は楊柳の林を、或は山七面鳥飛ぶ沼地を望みながら車輪を西北に一しきり進めると、索倫山の東方なだらかなる山谷の凹地に索倫の町がある。今は一寒村に過ぎぬが洮索線開通の曉には南部呼倫貝爾地方の未開肥沃の地開發と共に一都邑となるであらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●跳兒の假面(索倫郊外にて)
文化に御伽の國蒙古の砂原遠く軌條を進めて行き、王樣さへパツカードを飛ばす時勢の趨移となつた。由來喇嘛敎は淸朝初期に蒙古懷柔策として變則的に發達せられたものだけに今となつては存在の影が薄くなつて來た。これは喇嘛の祭典に舞踊する跳鬼のグロテスクな假面で文明に置き去られつゝあるものゝ一つである。 (印畫の複製を嚴禁す)