亜東印画輯/06
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●林西の全景(東蒙古)
熱河省の北邊、察哈爾省に接し、大板上の西方百六十支里、經棚縣を去る東方百五十支里にある縣城の所在地で、もと蒙古巴林右翼旗に屬する荒蕪地であつたが、光緒三十三年開魯荒撫局の手で、招民開墾を奬め、翌三十四年この地に置縣され、民國元年林西鎮守使を置いたが、同三年之を熱河道に合併した。現在の戸數約二千と稱されてゐる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●林西の西門(東蒙古)
市街の南北は遙かに山嶺を望み、周圍には方二支里半の土壁を繞らし、東、西、南、北の四門と、これに通ずる中央大街がある。この附近一帶の地は、まるで匪賊の巢で、住民はその被害に惱まされてゐる。個人の家、部落、都邑にはすべてこれを防ぐために、それ相當の土壁が繞らされ、銃眼さへ備へられてゐる。こゝの城門も流石に嚴めしい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●林西の城外(東蒙古)
城内には縣公署、公安局、捐税局、監獄、陸軍司令部、兵營などがあり、日本の醫師もゐて施療をやつてゐる。この殷賑な街も、一歩城外に出ると、道の兩側には、罌粟の花が毛氈を敷いたやうに咲き亂れ、豚の群が水溜りに戯れてゐる。左方上部の丘陵地は、蒙將巴布札布が、會て蒙古獨立の反旗を翻したが、事成らず奉軍に包圍され、悲壯な最後を遂げたところだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●淸い流れ(東蒙古)
興安嶺の東麓から林西の南を流れる烏里雅蘇臺河は、蛇蜒として蚓蚯[みゝづ]の逋つた跡のやうに視野を縫ひ、兩岸の地を潅漑しながら潡江に注ぐ、水源が近いのと、そこが花崗岩地であるので流れは淸い。滿鐵の種羊場がこの地に設けられたのもそれがためであらう。左方上部の一廓が種羊場だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●安住地の原始部落(東蒙古)
沙漠の東進と共に沙塵の襲撃を受け、曾てはあお靑々と生へてゐた牧草地を失つた蒙古民族は、安住の地を求めて東へ東へと移つて來る。一度び興安嶺を越へて滿洲の平野に出ると、そこには肥沃な黄土地帶が擴がつてゐるので、こゝに永住の地が占められ、個々の集團は漸次發達して部落となつて行く。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●耕農の蒙族(東蒙古)
沙塵の猛襲に逐はれて、興安嶺東麓に辿りついた蒙古の遊牧民は、自然滿洲人との接觸によつてその文化に浴し、風俗も滿洲化され、耕農も學び、農具をもまたそのまゝ取入れた。これは驢馬に曳かせる石臼の一種、『碾子』を使つてゐる蒙古人だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●物々交換に行く牛車(東蒙古)
林西附近は小麥、粟、甘草、蔴菇、牛皮、羊毛などの産地だ。氣候の變化が烈しいので、往々凶作に遭遇することもあるが、土地肥沃で収穫率は高い、殊に小麥は品質佳良としての定評がある。貿易の總額は輸出入共に百萬元に近いといはれてゐる。この農産物や天産物を積み日常の必需品と、物々交換に行く牛車は縣城へと行路を急ぐ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●珍しい穀倉(東蒙古)
遊牧の蒙古民族の移動家屋を包[パオ]と稱んてゐる。それが荒蕪地を離れて、耕作に適する沃地に着くと定住するので、この包は固定式なものとなり、収穫の穀類や種子を貯藏する穀倉ともなつてゐる。これは包から發達した穀倉で、建築學者は滿洲家屋の發達史を知る好資料だといつてゐる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●罌粟の花(東蒙古)
咲きも咲いたではないか、白、桃、紅と見渡す限りを彩つたところ、全く花の世界の美しさだ。原來罌粟は栽培を禁ぜらてゐるが、熱河省政府は却つてこれを將勵して、一天地に三元の税を徴し、その年収數十萬元に達してゐる。罌粟栽培の徴税は、栽培を取締るべき禁煙局でやつてゐるのも面白いではないか。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●穴居生活(東蒙古)
山西や河南、河北省では、黃土層を掘つて穴居生活を營んてゐるものが多いが、滿洲では見られない。林西地方では、黃土の粘り氣の強い部分を掘つて、それで土器を燒いて生活してゐるところから、土を掘つた跡に住まふことになつて、結局穴居生活をしてゐる。掘れば掘るほど座敷が擴がる譯で、誠に重寶な生活ではないか。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●斜陽を浴びて歸る偵察騎(遼西地方)
兵匪の集團は、各部落を荒しながら移動していく。農民のうちには疲弊の極、食ふため、生きるため、この群に投ずるものもあつて、集團は次第に大きくなる。警備の程度や他の集團の動靜を探るため、良民を装つた便衣の密偵を出す、それが齎らし歸つた情報によつて作戰行動が決められる。かうした集團が滿洲の各地に蟠居するので、部落ではこれに對する防備が施される。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●壯丁の歩哨(遼西地方)
從來部落に於ける匪賊の防備には、普通土壁を繞らし、威嚇の空砲を放てばよかつたが、最近武器も精銳となり、匪賊も兇暴となつたので、大規模な塹壕を掘り、武装した壯丁の歩哨が、匪賊の来襲を見張らねばならぬやうな狀態となつた。また一度一地方を占據した匪賊も、他の集團から襲撃される怖れがあるので、匪賊同士の間にも各自を衞る歩哨を必要とし、そのまゝこれを利用してゐる。村の警備は嚴重だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●塹壕(遼西地方)
匪賊跳梁の激しい邊鄕では、公安局はあつても巡警は賴むに足らぬ。嫌やでも自衞策を講ずるの他はない。そこで部落を圍む土壁の外に深い塹壕を繞らし、堆土を援堡として銃眼さへ設け、襲來の匪賊を狙ひ擊にする。地物なき荒れ野には最も有効だ。攻擊の術が進めば亦防禦の術も進む。支那の混沌とした現狀がよく窺はれる。こんなことがいつまで續くだろう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●獰猛な槍隊(遼西地方)
匪賊の武器には拳銃、長銃、靑龍刀、槍などが普通で、刀や槍の柄には必す紅布や紅毛が付けられてある。彼の有名な河南の紅槍隊なども、この紅布に因み名づけたものだ。近來盤居の兵匪には機關銃、野砲、迫擊砲さへ持つた正規兵の大部隊がある。然し銃器の行渡らない農民等で組織された太刀隊、槍隊などもあつて、白兵戰の前線で活躍する。この槍隊も次から次と部落を荒し廻るうち馬を掠め、銃を奪つて一人前の馬隊に出世する。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●呼集喇叭(遼西地方)
大部隊をなす兵匪の集團は、内面的な組織は全く軍隊と變らない。そして、起居、集散の總てを喇叭によって行動する。 彼らが白晝堂々として動き、思ひ切つた掠奪、人質、強姦、虐殺などあらゆる非行が公然と行はれ、今では播くべき種子さへ彼等のため食ひ盡され、今年は播種の出來ぬ地方が多かろう。地方民の疲弊は極度だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●馬隊の勢揃ひ
馬賊或は馬胡子などの名によって知られる如く、彼等部隊の戰闘ー活動の主力は何といつても馬隊だ、その敏活な動作は驚くべきものがある。馬と銃を獲て、やつと馬隊に加つたときの痩馬も、いつしか立派な肥馬に代へられて行くのも面白いではないか。彼等は襲擊の時、人質として小兒を連行するのが常習だ、馬背に見る憫れな兒童の姿は見るも傷た(傷た)しい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●部落の襲擊(遼西地方)
部落占據の前程として先づ威嚇發砲を行ひ、防禦や警備の程度を探り、手薄であるか、或は敵對意思なきを認めた後民家を占領する。單に威嚇の發砲で濟むのに、荒み切つた彼等は、人道もヘチマもあつたこのではない、所謂亂射亂擊だ。受けた良民の損傷などは見向もしない。寧ろ慘虐をつくすことが示威の一策と心得、惡鬼の如き振舞を敢行して憚からない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●匪化した敗兵(遼西地方)
匪賊部隊の中には服裝もそのまゝな正規兵がゐる。同僚の間でも兵士よりが實權を占める傾向がある。それは射擊その他に於て他を抜くからだ。 支那の正規兵や巡警等が逃走する場合、必ず銃器を持ったまゝ匪賊の群に投じ、また匪賊から正規兵となることも出來るので、兵士、巡警、匪賊の三者は區別がつかない、そこで兵匪の名がある。支那の兵隊さんには兵匪稼行といふゆとりがあるといつてよかろう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●先を爭つて逃げる(遼西地方)
資本いらず、濡れ手で粟の摑み取りを商賣とする彼等にも非常時がある。官兵の討伐に遇うか、他の大部隊と衝突すると極度の抵抗はするが、素と多勢を賴む烏合の衆、大勢非と見れば早くも浮足立ち、算を亂し爭つて逃走する。敵も味方もかうした手勢であるのも面白い對照だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●武裝した首領(遼西地方)
凡そ人の長たるには、どころか非凡なところがなくてはならぬ。況んや野獸の如き荒くれものを統禦する馬賊の頭目となるには風貌の傀偉、放膽、統卒、射擊の名手なとが條件とされる。平素部下に對する情味の厚いのはこの社會の則だ。然しこれが頭目かと思はれる優男もあるが、イザとなれば彼れには侵し難きものがある。綠林出身の張作霖などはその典型だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●兵匪の本部(一)(遼西地方)
兵匪ー馬賊とは一體どんなところに住み、どんな生活をしてゐるかといふことは、一般から疑問とされ、よくその眞相を聞かれるのではあるが、彼等匪賊の集團には別にこれという根據地はない。武力を盾とする烏合の衆で、夫れから夫れへと移り歩き、一地に永く止ることを絕對禁物としてゐる。一部落を占據した後の彼等は、ホッと一と休みするのであるが、仕事はそれからだ。先づ使者を派して附近の目星しい豪家に迫り、金や物資を強要するのが彼等の常事だ。今しも白馬で出門の一騎、これもその役目を承けた使者の一人だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●兵匪の本部(二)(遼西地方)
兵匪の集團は頭目と副頭目の下に班長がゐて雜兵を率い、外に監部がゐて樞機に參與する。監部の連中は所謂一騎當千の命知らず、匪運つきて官兵に捕へられ、極刑に處せられるときでもビクともしないといふイヽ度胸者だ。日本の死刑に末期の水を飮ませるのと同じように、支那では刑場近かくの飮食店で望みのものを食べさせるという習慣があるが、死の直前に際し麵を三杯も平らげたという豪の者もあり、眼隱しもせず笑ひながら從容死に就くものもある。また施政の横暴を民衆に訴へると、見物の群集から『好』と答へるなど、これら度胸者の處刑は他では見られぬ圖だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●分宿割當の札を帖られた農家(遼西地方)
昔の馬賊は慘忍性はあつても『義』といふことは忘れなかつた。掠奪はしても食ふに困らせぬよう現金でも半分は殘した者だ。今の兵匪は義も情もあらばこそ、根こそぎのかつ拂ひをやる。 生命の不安におびえた農民は、一枚の分宿割當の札によつて、母屋の占領は勿論、食料や馬糧まで徵發され、彼等の滯在中は物置か厩で家畜と共寢の浮目を見ねばならぬといふ主客轉倒さ。その上一家擧つて、彼等の命ずるがまゝ雜役までする。嫌な顏でもしたが最後、實彈の洗禮を受けねばならぬ。憐れなのは農民達だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●餓鬼相(遼西地方)
兵匪稼業の實際も、煎じ詰めれば食を求むるための、支那の世相が織り出した血の滴る一生活戰線だ。彼等に職を與へ、正しき道を教へたら、好んで危險な世渡りは撰ぶまい。パンの前には手段を擇ばぬ眞劍さであるが、食足り腹滿ちた暖かい平和なとき、彼等の慾求するものは何か。窓際に吊された一葉の美人畫にさへ興を惹き、他愛のない雜話に花が咲く。 多くを求めぬ、低級な暖衣飽食、これが彼等の慾望で、その日暮しの赤裸々な姿だといつてよい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●不安な假睡(遼西地方)
憩ふ間も去らぬ生命の不安に、片時として夢まどろむ暇もない。一歩門外に出づれば、彼等のためには皆敵ばかりだ。イザと言へば立たねばならぬ。武裝のまゝ鞋も脱かずに暖かい炕の上にゴロ寢の假睡、僅かに與へられた六尺の天地、これが今宵一夜の極樂淨土だ。然し手に銃をしかと握つたまゝ放さぬ、寢ても氣が許されぬとはこのことだ。一つ間違へば命の取引をせねばならぬ、哀れ兵匪の渡世の味氣なさ、はたで見る程樂ではない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●夜半の呼集(遼西地方)
討伐隊の来襲を受けたとき、目星をつけた豪農を襲擊するとき、また彼等兵匪同士の間にも、繩張りの闘爭が行はれることがあり、こうしたときには夜半に不時の呼集がある。傳令は四方に飛び、刻を移さず馳せ參ずる監部の面々。彼等の面には異狀の緊張振りを示してゐる。 果して如何なる行動に入るか、闇の院子は右往左往のゴツタ返し、銃を擬して武裝嚴しい監部の集りは物凄いばかりの形相だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●夜襲(遼西地方)
夜襲の命令は下された。豫ねて目星をつけてある農家を圍んで、威嚇の銃聲は闇をついて物凄い。土壁を越へ、門を破つての突擊、阿修羅の如く荒れ廻り、暴逆の限りをつくす。唯慘といふより外に詞はない。 斯くて凱歌を奏した一隊が雪の曠野を横切つて、根據地へと引揚げる頃、やがて東の空はほの(ぼの)と白む。非行ー慘逆の彼等の生活にも、また男性的な一場面がある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●捕へられた敵匪間者(遼西地方)
兵匪部隊同士の闘爭は相手の動靜を知る必要から、各密偵を放つて敵團の內情を探る。これを防ぐため占據部落の出入は特に嚴重だ。怪しいと見たら引立てゝ手嚴しい拷問が行はれる。若し他の隊から来た間者であるとか、自分に不利なものであつたら、斷乎たる處置が執られる。然し捕はれた間者が直ちに寢返り打つて、その配下に組するなども面白い。彼等仲間の則は嚴重で、これを犯したものは重い體刑が加へられる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●狙撃(遼西地方)
うづ高く積上げられた高粱穀の中に身を潜め、何者かへ狙ひを定めた一人、便服の上に彈を入れた背子を帶びた樣は、兵匪と呼ぶよりも、小數で働く馬賊の名の方がしつくりとし相應はしい。地方農村にはこの種の武裝が各戶に備へられてある。善良であつた地方良民も不作の年など、荒稼ぎに轉ずるものもあつて、時にはこの仲間に入らねば巾がきかぬこともある。遼西地方から北滿に於ける豪農の中には、かうした荒仕事で稼いだ揚句、足を洗つて正業に轉じたものも尠なくない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●雪原の大移動(遼西地方)
一村を食い盡くして仕舞ふと當然他の地へ移動しなければならぬ。着のみ着のまゝな生活は、唯身を以て運べばよい。大部隊の移動といつても、分捕つた貴重品を載せた數臺の馬車以外、荷物らしい物とてはない。徒歩或は乘馬隊の蜒々長蛇の列は白日の雪原を行進する。 彼等の内にも參謀格の軍師がゐて兵法を司り、絕へず部隊の統禦と敵國襲來の應戰に備へられる。列後に續く衞生隊の重傷者の輸送も憐れなものだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●延吉の街(遼西地方)
延吉は俗に局子街と稱し、五十餘年前までは樹木叢生野獣徘廻、僅かに砂金、人參等の採取者或は獵夫などの小屋が點在する荒涼未開の地であつたが、邊境からの鮮人移住者增加と共に、その對抗策として光緒七年(明治十四年)に、支那が煙集崗の地を卜して招懇局を設置し、自國民の移住開懇獎勵の結果遂に重要な農地となり、同年二十八年に延吉廳が設置されてから、全く見ちがへるやうな一市街を成すに至つた。それが今の延吉縣で、間島は縣治下の總稱だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●國境を結びつける天圖鐵道(延吉地方)
會寧の地方、朝鮮國境の上三寒の對岸、圖們江畔から火狐狸嶺を越へ龍井村を通過し、馬鞍山の峠をこし銅佛寺を經て天寶山に達する六十九哩(内局子街線六哩)、軌道二尺六吋の輕便鐡道であるが、今は老頭溝が終點となつてゐる。資金ニ百萬圓の日支合辧の經營で、國境をなす圖們江に架けた橋梁は、支那と朝鮮を固く結びつけてゐる連鎻だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●龍井村の日本街(延吉地方)
宣統元年に締結された間島條約によつて、龍井村、頭道溝、百草溝が通商地として開放され、商埠局や我が領事館まで設置されるに至つてから、日本人の移住者日益しに多く、遂に新しい純日本式の市街が建設された。これは日本商埠地に於ける新装の街だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●龍井村の市日(一)(延吉地方)
半島の山奥まで深く開墾し切つて、全く行詰つた鮮人達は、大陸の沃野を慕ひ、潜かに國境を越へ移住してゐたが、これが年と共に增加し、遂にはいつの間にか各所に鮮人部落を成した。これを見て狼狽した支那の吏員は、屢々その歸還を迫つたが、水の高きから低きに向ふが如く、滔々として來る移民の流れは、これを堰止めることも出來ず、益々增加するのみであつた。斯くて鮮人の間島とでもいふへき大きな潜勢力が植つけられた。これは市日に蟻集した鮮人の群だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●龍井村の市日(二)(延吉地方)
市日には近鄕に住む鮮人が、日需品を購めに來る。利に敏き支那商は彼等を相手として物々交換もやる。その態度は買つて貰ふのか、賣つてやるのか分らない。不遜の態度はまるで客が叱られてゐるやうだ。憐れな半島民族は常に大陸民族から壓迫を加へられてゐる。白衣は鮮人で、黑衣は支那人であるのも面白い差別的對照だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●天寶山(延吉地方)
天圖鐡道老頭溝車站から七哩の地にある銅鑛の所在地で銅鑛には金銀鉛をも含んでゐる。光緒十五年琿春總墾局の吏員が鑛脈を發見し、十六年に精煉を始め、銅と銀を獲たので、これに因み天寶山と命名した。十七年に天寶山鑛務局を創立し、二十八年米人と合辦の約を訂してゐたが、大正四年新たに日支合辦の契約成り、生産に適應した新式の諸設備を施し、一時は相當に稼行してゐたものだ。今は専ら探鑛にのみ力を注いでゐるが東邊に於ける鑛産地として有望視されてゐる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●老頭溝の鮮人の街(延吉地方)
天圖鐡道の終點で、こゝから敦化まで六十哩、自動車で一日行程の地でなか(なか)の賑いだ。その附近には石炭を産し、炭田の豫想埋蔵量は約千五百萬噸と稱され、日支合辦大興合名會社の所屬となつてゐる。 これは鮮人の街だ。彼等が北へ北へと進む發展振りは唯驚くの外ない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●鮮農の部落(延吉地方)
北鮮から大陸の沃地に落ちついた鮮人等は、先づ茅屋を造り、こゝを安住の地として開墾に從事した。耕農の技術と精力は支那人の及びところではなかった。 斯くて培かはれた彼等の勢力は、次第に根に根が張つて固く、家集つて部落を成す。その努力と忍耐の偉大さはまた格別だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●頭道溝の美田(延吉地方)
頭道溝は一名山河鎭とも稱し、龍井村の西方三十支里、海狼河上流の平野の中にあつて、最近龍井村と共に著しく發展した街だ。市街は南北の二部に分れ、南は支那街、北は鮮人街だ。我が領事館の分館もある。 會ては雜草繁茂、鬱蒼たる密林に覆はれた地も、今では山に一樹の影さへ見られないまでに開墾され、一望の平野はこれ悉く水田と化した。秋のみのりの美しさが偲ばれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●甕聲磖子(延吉地方)
局子街から吉林に通ずる街道上の小市で、もと寒村であつたが、近來鮮農や、支那農民の移住し來るもの日に多く、市も開設され、既に發展して、今では巡警局、兵營、小學校を設け、我が領事館警察の分署もある。約四百の匪賊團が、此地を襲擊せんとして危險に迫つたので、孤立無援の我が分署が本月九日天寶山に引揚を餘儀なくしたといふ物騒な地だ。然し都では見られぬ山地の雪景には、亦捨て難い自然の美しさがある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●杣小屋『上窩棚』(威虎嶺附近)
滿洲といへば渺望千里の平野と禿山を想はせる。然し北の興安嶺、東の長白山脉の一帶には鬱蒼とした原始林がある。一時筏節で名高い鴨緑江沿岸は濫伐されて全盛期は既に過ぎ、その中心地は吉林省に移つて來た。尚製材としてのみでなく製紙用パルプ原料としての寶庫であつて、米國からの輸入パルプの驅逐も遠き將來ではないとさへいはれてゐる。これは出稼の杣が山中で住む假小屋の『上窩棚』で、夏の日盛り布團乾しをするのも、光線の不足と雨上りのジメ(ジメ)しさが思ひやられる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●杣小屋『小窩棚』(威虎嶺附近)
杣は舊曆九月中旬資本家と共に入山、地域の撰定をなし、日當りよく、飲料水を求むるに便利な地點を撰び小屋がけをする。その小屋を『上窩棚』といひ、山麓の集材所には帳場や馬小屋を設けて事務を執る。こゝを『下窩棚』といつてゐる。冬の忙しさに引かへ夏の窩棚は荒れはてゝ見る影もない。自然のうつろ木を利用した原始的な馬槽子や水桶なども面白い。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●夏の伐木(威虎嶺附近)
杣は食料その他一切の仕入れをなし、舊曆十月中旬樵夫を伴い再び入山、道路の修築その他諸般の準備を了へ、十一月の上旬吉日を撰び山神に酒肉を供へ、事業の成效を祈福する開山の式を行ふ。これが濟むと伐木を始め翌年一月末に中止するのが普通となつてゐる。冬期に伐木するのは、春からの發育期に切ったものは質が柔かく腐蝕が多いのと、雪を利用しての運搬が便なからだ。然し夏でも必要に應じて切るのは勿論だが極めて尠ない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●集材(老爺嶺附近)
伐採した原木は枝と梢を拂つて所要の大きさに切り、冬は雪や氷の上に辷らせ、夏は搬道の要所に滑車を用ひて『下窩棚』に送る。角材はこゝで加工され編筏地域は管流地に、牛或は馬に曳かせて搬出する。『上窩棚』と『下窩棚』との距離は十支里乃至二十支里で、普通大きな梁材一本を牛二頭に曳かせる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●陸送の枕木(老爺嶺)
老爺嶺の森林地帶は、その面積廣く滿洲に於ける大富源の一として囑目されてゐる。輸送は河川の自然流下によるため天候に支配される憾はあるが、將來交通機關の完成と共にその開發は期して俟つべきものがある。現在の伐木は地形の關係から老爺嶺の東側では敦化に送り西側では吉林に搬ぶのが例となつてゐる。 これは馬車で陸送すべく貯蔵した枕木だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●集材の加工(敦化附近)
伐採された木材は直く山元で大體の加工をなし一定の場所に集材するのが、普通ではあるが牡丹江や松花江本流の沿岸を伐採した當時は、皮つき丸太のまゝ搬出したのが習慣となり、漸次採木地點が前進し遠ざかるに從ひ地形も急となり、運搬も不便となるに至つても尚平地まで丸太のまゝで運び加工することもある。こゝから水運或は陸運によつて搬出され、更に需要市場へ送る。吉林奥地に於ける年産額は約八十萬石以上だといはれてゐる (印畫の複製を嚴禁す) -
●氷上の搬材(敦化附近)
洋々たる流れに沿ふて下る筏は、夏の牡丹江名物の一つだ。然し北滿の冬は水あるところこれ銀盤と化す、わけて河は障碍なき唯一の道路となり、その上に積んだ雪を蹴つて辷る橇の群は絡繹として絕へない。氷上には宿屋さへ假設されるといふ盛況だ。切り出した大きな角材なども、かくして易々と搬へる。この光景の壯觀は北満でなくては見られない。 これは牡丹江を搬材する橇の一群で、遥かに見へる給水塔は、吉敦線の終點敦化の驛だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●散流と編筏(蚊河附近)
下窩棚から附近の小流に運んたものを雪解の增水に乗じ一本宛散流させる。そして大流と合し水勢の緩慢な地點で流木を集め編筏をする。大きな角材は十五本、丸太の長材にあつては二十二本を結つけて一節とする。筏の節數は水深によつて異るが、松花江の本流を流す長いのになると、五節乃至十節を聯結したのもある。大筏になると犬や豚まで飼ふ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●流筏(一)(阿什哈達)
編筏が濟むとその上に筏夫が起居する花棚子と稱ふ小屋を作り、增水期を利用して流す、大規模な筏は如何にも大陸的だ。遠く長白山に源を發する靈川の松花江、大江悠々の趣はないが、淸澄の山容と相俟つて江の雅趣を添へる。吉林の上流十支里の阿什哈達[アシハタ]には税局がある。納税のため江岸に密集した家つきの筏は、宛ら村落のやうだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●流筏(ニ)(吉林附近)
長白を洗つて流れる松花江の大流に漾ふ幾百里かを、流れ流れた筏は、吉林と九站に着くと解體水揚され、鐡道により各地に向けられ遠くは日本にまで搬ばれる。吉林の背後を擁する大森林は、この松花江がなくては生きられない松花江の雄は何といつても木の都吉林の生命だまたの名を水の都といふのもそれがためだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●冬の夕陽(荒山子附近)
吉林から四十粁の荒山子地方は、山地ではあるが緩やかにうねつた丘陵地。海抜の標高は相當に保つてはゐるが、左程高い氣がしない。日足短かい冬の日、雪の山地から積雲に包まれた夕陽を眺めた自然の美しさは、全くの繪だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●氷の馬槽子(松花江)
松花江冰上の宿屋を水院子といひ、氷の井戶を掘つて江水を汲む。氷點下何十度の嚴寒、すぐ凍りつく水を搔き廻はしながら、橇を拽く牲口に飲ませる。牲口の髯も氷柱となり、水槽の周圍は厚く凍結して玻璃の如くなる。氷の馬槽子は冬の北滿でなくては見られない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●水ぬるむ松花江(吉林より四十支里の上流)
堅氷に閉されてゐた松花江も、一度び柔かな風に變ると解氷期に入り、江水俄かに溢れて沿岸の部落を浸し、囂々と流れる氷塊の壯觀は寧ろ物凄い、時には家屋が流氷のため、破壞されたという噓のやうな話もある。かくして水ぬるみ、ちりめんのやうな漣が水面に搖れる頃の大江には、悠々として筏も浮べば船も通ふ、惠まれた山水は美しい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●蛟河の淸境(瓜茄附近)
吉敦線の一驛蛟河の街から松花江の支流蛟河に沿ふて、下ること百支里の地に瓜茄の部落がある。こゝは雜穀の集散地で、蛟河吉林間唯一の船つき場。吉林から蛟河方面に雜貨その他の荷を輸送した空船は、必ずこゝで雜穀を歸り荷として積む。北滿の平野を流れる蛟河、朝霧こめた夏の瓜茄は幽閑な潤ひのある淸境だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●騾駝の群(吉林大沙河附近)
北滿の森林地帶は山道で、然かも濕潤なため車を通せない。荷物は一切馬背によつて運ぶ。騾駝は山地に於ける唯一の交通機關といつてよい。積荷は僅かに百五十斤精々だ、若し多く積むと濕地へ足を入れたが最後、馬の腹までつかつて動きがつかない。馬もよく馴れたもので、荷をつけた鞍をもつて行くと自ら後退して任につく。これは滿洲山地の特徵ともいへよう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●船頭なき渡船(二道河子附近)
北滿山地の河川は案外水量が多く、馬では渡れないため、渡船は大きな役目をなしてゐる。河に鐵線を張り、獨木舟の舳先に結んだ繩を通し、鐵線を傳つて行く。また小川には鐵線に藤蔓を環にして幾つも通し、更に各環に繩を結び、船が進めば彼岸まで繩が延びる。此岸で繩を引けば彼岸に乘捨てた船を戻すことが出來て、船頭はなくもとよい。交通不便な地には、それ相當な機關が備へてあるのも嬉しい。(印畫の複製を嚴禁す) -
●煙草の乾燥(六道河附近)
吉敦地方山地の農產物中、煙草は確かに名產の一つとして數へられる。山中で作つた煙草の葉を繩につるし、乾燥してゐるのを至るところに見受ける。乾かした葉は梱包して市場に出す。葉の大きなのと、生產額の多いのとは、さすがに大陸的だと感心させられる。(印畫の複製を嚴禁す) -
●木立の電柱(威虎嶺附近)
吉林の森林といつては老爺嶺を口にするが、威虎嶺を知るものは少ない。そこには白樺、落葉松の巨木密生し、然かも、くるみ、かへで、だんjの如き貴重な堅木が無盡藏にある。山道の木立をそのまゝ電柱に利用したのも原始的だ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●雪搔の材料(老爺嶺附近)
さすがは東北の滿洲、冬になれば雪と氷に閉される。雪搔きは冬の滿洲になくてはならぬ道具の一つとされ、需要の數も大したもので、吉林地方からこれを供給する。その材料は大きな角材を取つて兩端の切屑を利用して作る。角材の殘屑も木材の豐富な山地に於てこそ大した價値はないが立派な材料だ。雪搔きだけで捨てるのは措しい。他に利用の途はないものか。(印畫の複製を嚴禁す) -
●吉敦線の勝地(六道河附近)
六道河子驛を發して敦化に向ふ途中、汽車は六道河の左岸を走り、車窓の右側から淙々と淸流の響が聞へる。この深綠の山地を、すき透る淸流とは、南滿の草や木のまばらな黄土の曠原や、黄色の河流に倦いた行客の眼を樂しませる。この地方を以て南滿の安奉線にたとへ、吉敦線中風光明媚の最勝地とするのも無理はない。(印畫の複製を嚴禁す) -
●蒙古人の部落(察哈爾貝子廟)
蒙古の民衆は佛菩薩を信じ、手に念珠をつまぐつて、オムマニパトメノンの呪文を唱へ、生れながらの喇嘛信者であつて、蒙古人からこれを取り去れは、何物もないといふも過言ではあるまい。寺廟への參詣者は次から次と絕へ間なく、その附近には參詣者相手の商人部落が出來る。家屋は無論移動式の包ではあるが興安嶺に近かいだけに、漢人文化の潤ひにも浴し、支那家屋まで見られる。(印畫の複製を嚴禁す) -
●包生活の漢人雜貨店(察哈爾貝子廟)
王府や寺廟附近の部落には、漢人が蒙族の間に入込んで、同じ天幕生活の裡に日需品を賣り、時には物々交換もする。利に賢き漢人は、蒙人の疎きを奇貨として、暴利を貪る樣は見てゐて腹が立つやうだ。包の中に陳列した商品が、綿布、手巾、化粧品、銀器、時計、鞋など、所謂雜貨であるのも面白い。(印畫の複製を嚴禁す) -
●鄂博(オポ)
(一)(察哈爾貝子廟)蒙古人が、山神地砥を祭るため、山頂、峠、山腹、丘陵或は河岸などに、石を積み上げてつくつたのが、この鄂博である。鄂博には種々の樣式があり、上に柳條を植へ或に柳條を束ね、尚ほ木桿を立てたりしてある。蒙古人はこれを土地神、道標、旗界などゝして、神聖犯すべからざるものとなし、これがために、毎年時を定めて盛大な祭典が行はれ、角力、競馬の催しなどがあつて賑かなものだ。これは十三太保鄂博といつて、十三の石塚をもつて一組とした大規模のものだ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●鄂博(オポ)
(二)(察哈爾とシリンゴール旗との境)積石に柳條を配したのは、一般の鄂博と變りないが、その前方に屋根附の祭壇を設けたところは、他に例のない珍しいもので、チヤーグスタイオポと稱はれ、通行人は必ずこゝに詣り、彼等が伴ふ家畜の生毛を抜き、供へて祈願する。それが行路平安の禁厭となるのだ。この祭壇は滿洲人によつて薩滿化(シャーマン)されたものらしい。(印畫の複製を嚴禁す) -
●荒れ行く喇嘛廟(ボロホンチーのジラゲンタイ廟)
正面後方の本殿は殆ど支那式であるが、前方の僧房は西藏山地の民家に見る平家根に似て、壁も厚く何となく重い感じがする。然し本殿にも雛壇式の二階造りで、四方をきちんと煉瓦で圍んた純西藏式のもある。西藏樣式の影響を受けたのはいふまでもない。こうした美しい廟宇も、連年の兵災に禍され、心なき兵士等のため荒されて行くのは惜しいことだ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●喇嘛の樂器(察哈爾貝子廟)
喇嘛の式典或は毎日の讀經に用ふる樂器の種類は多いが、大鼓、搖鼓、銅鑼、鈴鐺、大小喇叭などが普通とされ、殊に大喇叭は長さ十尺以上に達するのがあつて、四段繼に疊込むやうになつてゐる。左側に立てたのがそれだ。音は極めて低いが、トルキスタン地方の樂器のうちで最も特有なトラムペツトの一種と思へば大差ない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●靑年の喇嘛僧(察哈爾貝子廟)
蒙古では長男を除いた次男以下は、七歳にして必ず喇嘛寺に入り、僧侶となることが義務であり、また名誉となつてゐて、中には傷々し氣な幼僧もある。朝夕幼僧、壯僧、老僧の讀經の聲は立派な大コーラスだ。中には人間離れのした怪聲のバスもある。これは法服をつけ、手に雞冠帽を持つた正裝の喇嘛僧。その逞しき骨格、思慮深き相貌、實に立派な靑年だ。これを去勢的な喇嘛生活から實社會に導いて、新天地に活動させてやつたらどうだらう。(印畫の複製を嚴禁す) -
●喇嘛塔(察哈爾二郎廟[オロンスム])
由来塔の所在地は、風水の關係から、夫々靈地として撰ばれたものだ、決して氣まぐれに建てられたのではない。喇嘛塔も亦單なる裝飾ではなく、至上、守護、避邪、福神、豐饒などの意に於て固く信じられてゐる。その内部には佛像、經典或は五穀を納め、時には名僧の舎利を納めることもある。 これは乾隆年間の作で、普偏的な形ではあるが、新しいものとしては整つた標式的なものだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●夕陽に向つて(察哈爾貝子廟)
喇嘛の一部では、毎日夕陽に向つて法帽を捧げ、禮拜讀經するの行事がある。今日聖化された宗教も、もとをたゞせば自然崇科であつて、喇嘛にもその俤が遺されてゐる。斜陽は眇として際涯なき曠原を縫ふ淸流に映し、讀經の聲は夕陽にかすむ地平線上に消えて行く。自然と宗教、その莊嚴さは全く神秘的だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●不思議な禮拜(察哈爾貝子廟)
蒙古人の禮法には種々の別があり、神佛に祈願をこめるとき、特に不思議な禮拜が行はれる。先づ兩手を合せて拜み、膝をつき足を延ばし、腹逋ひとなつて咒文を稱へた後、もとの如く立つ。これを何回となく繰返し、その都度珠數で一つ宛回數を算へる、その逋逼の態度、唯奇怪といふより外ない。處變れば品變るの諺がある如く、國が變れば風俗習慣にも大きな相違がある。これもその一つの現はれといつてよい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●王府の一瞥(呵巴嘎王府)
中央の支那家屋と『包』は王府直屬の喇嘛廟、右方の一廊は王の住宅だ。左方に樹てられた柱は王府の標徵だともいはれてゐるが、佛教で信仰されてゐる八供の一たる天傘の變形であつて、吉祥の表象であるらしい。その後方に二本の柱をたてゝ繩を張り、結ひ附られた白の小布には經文が書かれてある。この白布をハタツクといひ、鄂博や住宅の入口にまで張られ、我が〆繩に似通つた點がある。百人一首の『このたびは幣もとりあへず手向山紅葉のにしき神のまに(まに)』の句が偲ばれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●王府の喇嘛廟(呵巴嘎王府)
王府には王府直屬の喇嘛廟がある。この地方は漢人との交通があるだけに、粗末ながらも支那家屋の廟が建てられてゐる。何といつても『包』に比べると堂々たる廟宇だ、中には大きな佛像が安置されてある。その前には必す『包』の副廟があり數多の秘佛が祀られ、黄巾で包んで玻璃箱に納めた尊體もある。而してこの副廟の戶は必す内部から嚴閉する裝置となつてゐて、そこで種々の加持祈禱が行はれ、時には子授けの神事さへ行はれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●王府の執政處(貝子廟)
王府には執政處があつて、王は自ら出でゝ執務することゝなつてゐる。正面は支那家屋にある王座で極めて簡單なものだ。狭くるしい『包』から見れば、規模が大きいだけでも威嚴が備はり、役所らしい氣がする。然し役所といつても、中央の茶卓兼用の机、古ぼけた茶盆などを見ては、その程度が知られる。兩側に敷いた堂官の座る小さくて四角な氈子が、我が座布團に似てゐることに注意が拂はれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●謁見室の呵巴嘎王(呵巴嘎王府)
王府の『包』には王の居室と謁見室とは別になつてゐる。これは謁見室の王府に納まつた呵巴嘎王で、自然に備つた氣品は爭はれぬ。室内の裝飾は全部眞紅の緞子でこれに白の模樣が入つてゐて、その美しさは眼が醒めるやうだ。謁見の蒙古人は、左足を後方に延へ右膝を立て右手を垂れる最上の禮をなす、盛裝した堂官等も整列しそれは(それは)大袈裟なものだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●名花の蕾(東喀齊特王府)
蒙古人といへは鬼をもひしぐ凶猛さを偲ばせる。彼等は觀骨の高い蠻族に似たのもあれば、また色白な元祿式の爪實顏もあつて、これ等の混血族にはなか(なか)の美人がある。 これは東喀齊特王の愛孃で芳紀將に十六歳、明貌の朗らかさ、淺黃服に紫の兵兒帶黃色の彩巾を冠つた姿は、全く湖沼の中から拔け出た睡蓮の蕾のやうだ。乾き切つた沙漠地の旅行者から凝視の的となるのも無理からぬ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●王府の堂官(貝子廟)
王府には堂官といふ役人がゐて、管内の行政、財政、警備の一切を司つてゐる。恰かも封建時代に於ける我が家老とでもいふべきもので、素晴らしい權力を持つてゐる。 これは阿巴嘎王府から貝子廟の王府出張所に派遣された堂官達で、蒙古人特有の服裝と相貌とが、よく現はれてゐる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●堂官の家族(貝子廟)
堂官の夫人達は西藏の盛裝に似た衣を纏ひ、鑫珊瑚や珠玉をちりばめた飾りを着けてゐるため、西藏系だともいはれてゐるが、容貌は寧ろ苗族に近かいのを見ると、或はそれ等の血が混つてゐるのかも知れない。右の二人は既婚者で左は未婚者、盛裝の婦人等が楚々としく歩む容姿は全く古代劇を見るやうだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●急造の客間(阿巴嘎王府)
王府とはいふものゝ、彼等はもと遊牧の民であつただけに、居宅は一切移動式の『包』だ。然かもその數は尠ないだめ多くの客があると、急造の天幕を張つて客室に充てる。それが數多準備されてあるには驚かされる。王府の天幕は必ず淺黃で、それに白の唐草や吉祥文が浮き出されゐる。この樣式は民間では決して用ふるを許されない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●『包』と支那家屋の併用(貝子廟)
漢人文化に浴した地方に於ける王府の堂官等は、好んで土造の支那家屋に住む。然し夏は凉しくて住み心持がよいが、冬は暖かい『包』が戀しいと見へて、 寒くなると『包』を組み立てゝこれに移り、暖かくなるとそれを取りづす庭の圓形なのは『包』の床であつて、所謂新舊併用のモダーン振りを見せてゐる。或はこれが得意なのかも知れない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●羊の料理(阿巴嘎王府)
この地方では家畜として豚を飼はぬ關係から、珍客には羊が唯一の御馳走だ。その料理には、先づ蒙古刀で心臟を突いて内出血をさせ、皮を剝いで首を切り、血痕一つ殘さない、實に馴れたものだ。然かも婦人まで平氣でこれを手傳ふ。そして何一つ捨てるものもないまで、種々と利用する。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●郊外の秋(陳相屯)
南滿の平野から安奉線の山地に入らんとするところ、小さな一驛陳相屯がある。沙河は北に流れ、雲煙模糊の裡に遠く歪頭山を望み、驛の東北にある塔山には、釋迦三尊を安置せる安寧寺と佛塔がある。塔山は奉天會戰當時、露國第二軍の主力防禦陣地であり、戰跡として有名の地だ。早くも苅り取つた黄ばんだ高粱、匪賊跳梁をよそに家畜の放牧、澄み切つたのどかな初秋、これ等を包むその郊外の爽快さはまた格別だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●宮の原から太子河の遠望
宮の原は、もと福金嶺と稱び、日露戰役に、閑院宮殿下御奮戰の地で、その紀念に昭和二年現名に改稱され、山上には戰跡碑が建てゝある。蜒々としてうねる太子河の淸流は、麓の懸崖を洗ひ、筏はその流れに沿ふて悠々と下る。照りつける初秋の陽はなほ強く、その反射は皎々として不氣味に白く、水面は勿論高粱畑まで、氷雪の如くに光る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●圓形の穀倉(太子河流域)
滿洲に於ける特殊な穀倉の一つ。笊の如く圓筒狀に編んだ柳條を外部から泥で塗りつぶし、前面に小さな出入りの窓を設ける。屋根は草葺きとして、上に水盆の底に孔を開けて伏せ、換氣の用をなす。この形式は興安嶺を越へて東に移住し來つた蒙古人の間に用ゐられるものに似、下底には石を列べて濕氣を防いである。左方はおも家で右方は家畜小屋だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●夏の水邊(橋頭附近)
眞夏の陽は灼きつけるやうに照り、その暑さはうざるやうな氣がする。それは人間のみではない。家畜も同じだ家畜のうちでも豚は特に暑さを嫌ふて濕地を求める。今豚の群は餌を漁りながら水に浸り涼をとつてゐる。時には小川を泳いて渡ることもある。豚が泳ぐといつたら笑ふ人があるかも知れぬが事實だ。水邊に育つ家畜は、自然とその技が備わつてゐるのも不思議だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●天險摩天嶺の要害(連山關の東)
昔の遼陽から安東と朝鮮に通ずる、唯一の街道を扼した要害の摩天嶺は、我が箱根の險に似、頂が五つに分れてゐるため玉峯嶺の別名もある。日淸役には黑龍江將軍伊克唐阿は、敗兵をこゝに収めて固守し、我が第五師團の今田大隊は一旦占領したが、戰略上これを放棄した。また日露役には、第二師團は戰闘を交へずしてこれを占領した。優勢なケルレル支隊の逆擊を受けたが、擊退したといふ有名なところ。嶺上には日露の戰跡碑がある。林間に白く見へるのがそれだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●勝景に富む細河溪谷(連山關の盤龍山から)
安奉線は、長白山系の分嶂を斷つ橫谷を縫つてゐる。その橫谷は分水嶺たる祁家堡として、草河は南に流れて鴨綠江に注ぎ、細河は北に流れて太子河に合す。細河の沿岸は奇岩、老松、碧潭に富み、綠山碧水の關は耶馬溪の勝景を偲ばせる。春は野生の福壽草、芍藥、ライラツク或は鬼躑躅、梨、杏など萬花咲き亂れ、秋は葛紅葉に一段と風情を添へる。變化なき黄土の平野からこの地に入ると、全く仙境の感がある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●鐵砲擔いで買物に(連山關附近)
安奉沿線の部落は、鐵道の出來る前から各村舉つて匪賊の剿窟で、村長にはその頭目が撰ばれるのが例であつた。殊に近來の匪賊横行は亦格別で、各部落の間にも相互の反感があり、自衞せねば危險が迫る。市日の買物にも武裝を必要とする物騒さ。長煙管を㘅へ、酒と油の瓶を提げて、雜品を入れた口袋を肩にかけ、鐵砲を擔いだ悠々たる 武裝の珍姿は、他の地方では見られない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●湯山城の街(安奉線)
靉河の支流龍泉河と湯河の合流點、湯山城趾のあるところ、湯山城は古くから湯站と稱ばれ、朝鮮から遼陽に通ずる街道の驛站の一つであつた。附近の東湯に溫泉があり、五龍背を西湯と稱んてゐるのを見ると、湯山城の名も、この溫泉に因すてゐるであらう。街は古風な支那家屋ではあるが、兩側に街路樹を植え、或は排水溝を設けるなど、モダーン振りを見せてゐる。これも鐵道の齎らす文化のお蔭だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●沙河鎭の支那街(安東縣)
沙河鎭は安東の舊市街で、線路の西方五道溝に延び、古い大商店多く殷盛の地だ。然し裏通りには狭まくるしく建てこめた貧民窟もある。昔は人煙稀れな地であつたが、同治年間に山東、遼陽の漁農者が移住して一部落をなし、光緒二年に安東衙門が置かれ、材木取引が盛となつて、大弧山、大東溝の繁榮を奪ひ、今日の盛を致した。今は安東縣となつてゐるが、それは俗稱だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●支那の遊廓榮安里(安東)
市外の野原に遊廓をつくれば街は直ぐ續く。民族と市街發展の先驅は何といつても娘子軍だ。殊に女好きの支那人にはこれはなくてはならぬ機關の一つだ。娘子軍の多くは山東から輸入されるが、また滿洲產もある。服裝と足の相違によつて、容易に區別することが出來る。支那の遊廓は、普通平康里の名によつて知られてゐるが、こゝでは榮安里と稱んでゐる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●糧棧園子の盛況(開原)
開原地方は、南滿最良大豆の產地であつて、年額數十萬石に達し、冬期十一月末から出穀期の大豆集散の盛況は實に想像以上だ。市中に櫛比する糧棧は千坪以上の園子を構へ、稀れには五千坪、一萬坪の敷地を擁し、油房を兼業するものすらある。園子に曳かれた數十臺の馬車、馬車、苦力の活躍とその混雜は、まるで戰場のやうだ。圖は糧棧の園子で囤積した大豆と、その積込の盛況だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●大豆の裝塡(開原)
糧棧の園子に曳き込まれた大豆は蓆子で圍つてバラ積をなし、荷主は糧棧にその販賣を依托し、商談が纏ると麻袋に入れて搬出する。圖は修理した麻袋に大豆を裝填するところ。 從來開原に於ける特產物集散の數量は逐年増加し、最近急激の經濟的發展は驚くべきものであつた。開原の生命は何といつてもこの特產物である。特產なくてその殷盛は望めない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●掏鹿の望臺(西豐縣)
掏鹿は所謂東山地方に於ける屈指の都市で、北は山脈連亘、南は冠河を隔てゝ、沃野は廣く展開してゐる。主なる大街は二條あつて、東西南北に十字路をなしてゐる。街の北に迫る丘陵上に、方形煉瓦積の望臺があつて周圍に濠を繞らし、今は匪賊の監視所となつてゐるが、もとこの地防備の要所として設けられた、邊牆墩臺の一であつて、その土臺の基部を加修したものではなからうか。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●掏鹿の街(西豐縣)
掏鹿は、もと淸朝の狩獵地で、康熙年間以來荒蕪に委せてあつたのを、光緒二十二年に開放、移住開墾してから、人口漸次増加を來たし、二十六年には總管衙門を置き、二十八年に西豐縣公署を創置した。爾來政治、商工業の中心となり、洋式建物多く、大小の商店櫛比し、頗る繁盛な街となつたが、圖のやうな舊式の商賣もまた軒を竝べてゐる。開原の殷盛は一に掏鹿地方の大豆の惠みによるといふも過言ではあるまい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●滿洲の高屋根をなす公主嶺
滿洲の山勢は一般に東北から西南に延びてゐる。これは東亜に於ける造山力の通性であつて、日本群島の造る線もこれに遵つてゐる。またこれと直角の方面に山脈が走ることも特徵となつてゐる。公主嶺の丘群も即ちそれであつて、著しい南北の分水嶺をなし、北流する伊通、飲馬の諸流は、松花江に合して黑龍江に落ち、南は東遼河となつて遼河の本流に注ぎ、公主嶺は滿洲の高屋根となつて、明かに南北滿洲の境をなしてゐる。圖は最高の丘陵で、その麓の樹林は公主陵である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●公主陵(公主嶺)
驛の北八支里、波狀の丘陵地に建てられた古廟の後ろに二基の墓塋がある。これが公主陵であつて、公主靈とも稱し、嘉慶帝の姪に當る嚮齡公主の靈柩を納めた靈場だと傳へられ、陵を中心として陵東、陵西、陵前、陵後などと稱んでゐる。もと荒廖たる一寒村であつたが、往年露國が東支鐵道敷設に當り、遼陽、瓦房店と共に、この地を軍事上の要地となし、こゝに大規模の機關庫を設け、數多の軍隊を駐屯せしめ、市街經營をなし、名も公主嶺とするに至つた。滿鐵の農事試驗場は有名なものだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●四平街の附屬地
四平街は滿鐵線から分れ、四洮線によつて東部蒙古に到る接續地で、滿鐵線へ吸収される物資と、滿洲から蒙古へ致される貨物とが、皆この地で連絡する。淸朝時代にはこの地も狩獵地であつたが、鐵道の開設と共に今日の盛をなすに至つた。市街は附屬地と支那街とに分れ、附屬地は規則正しい街衢をなし、驛前の大街には圓形の大廣場があり、西端には瀟洒な公園がある。支那街には特產商が多く、潑溂たる市勢を示してゐたが、時局の影響は蓋し止むを得ぬ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●農家の女(四平街附近)
曾ては四百餘州の主として時めいた滿洲族も、民國革命と共に權威も地に落ち、その風俗も漢人を眞似、風雅な兩把頭の髷も、惜し氣もなく切落して斷髪となつた。誠に異狀な變化といふべく、今では昔の俤は地方の一部に殘されてゐるに過ぎない。寛かな長衣、稚兒髷に似た髪の結び方、不纏足の足、そしてそり身に悠々と濶歩するその容姿は、漢人には見られないところだ。圖は驢馬を曳いて、田舎から街へ買物に來た純滿洲婦人の一群だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●露天の葉煙草賣り(開原附近)
滿洲の葉煙草生產は、年額約五千萬斤と稱され、主要物產の一つとなつてゐる。採取した煙草の葉は、乾燥して柳子煙或は把子煙に加工される。圖は路傍に店を擴げて把子煙を賣る店だ。これを細かくして長柄の大きな煙管につめて吸ふ。賣るもの、買ふもの、こののん氣な調和は如何にも大陸的だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●路傍の鐵廠爐(鍛冶屋)(開原附近)
滿洲の鐵道沿線には、諸所に大都市が建設され、大工業が勃興してゐるが、一歩鐵道から離れると、その反對に極めて傳統的な風習が殘され、幼稚な工業が到るところに見られる。路傍に店を張つた鐵廠爐もその一つだ。簡單な移動工場。鞴子と金敷に鎚があればそれでよい。通行者は必要に應じて加工を賴む。彼等にとつては直ぐ用が足りて便利なものだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉麻雀
冬の長夜を、無聊に苦しむ有閑家庭の婦人たちには、麻雀はもつて來いだ。支那の生活と賭博、それは離れる事の出來ぬ聯想だ。勿論金の掛からない麻雀は、あまりないやうだが、竝んだ四人の恰好から見ると、身なりばかりケバ(ケバ)しくて、大きな麻雀ではなかるべく、四人の目つきからみると、この御婦人たち、あまり上手でもなさそうだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉飯館子[フアンコアンズ]
北支那にみる大衆相手の飮食店である。主人の服裝からみると嚴冬であるが、右端の大圓柱からみると近代文化とあまりかけ離れた存在ではない。盛んに湯氣を吹いてゐるのは、高粱のお粥であらうが、寒い出店ながら飛び込んでこれを一杯すゝり込むことによつて、全身を溫めることが出來、そこらに見える通り、豐富な日常の飮食物は空腹を充分充たし得る。芥りと共に生きるものには、主人の服裝など、この場合食欲と無關係だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉豆腐脳[トーフナオ]
變なものを想像してはいけない。桶に入つてゐる白いのは豆腐腦といつて豆でつくつた食ひものだ。臺の上にある茶碗で一杯が銅貨の五六枚、饅頭をかぢりながらこれをすゝるのである。桶の底には、火があつて中味の冷めぬ仕掛けがしてある。棒で押しあげた大きな日覆ひそれから吊るしたカンテラ、竝べられた幾つもの腰かけこの豆腐腦の需要量が知られる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉大道のお湯賣り
これほど重寶な商賣道具はまたとあるまい。ヤカンが同時に竈であり、焚き口から煙突までついてゐて、しかも煙突には火の加減を調節する設備までしてある。これ一つさへあれば、求めに應じて何時でもお湯が賣れるのであり、生活がして行けるのである。こつた雕刻がつけてある邊り、古くから存ずることを物語るものであり、同時にその職業的經驗を窺ふには足るが、傍らの煙突と大して變らぬ水さしには、少々うんざりさせられる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉講書の女
若い藝妓の『講書』語りである。無表情で、語るともつかず、歌ふともつかぬ『講書』が、大衆に受けるのはその物語りの筋といふよりも、その美貌のためであり、その若い聲と蜿味線の音と、それに混つて輕く叩かれる皷との、音樂的調和に引きつけられるからである。舞臺が挾く、トタン板で造つたヤカンの見える邊り、大きな舞臺ではなかるべく、蜿味線ひきの目つきからみると、この藝妓、まだ大して慣れぬと見える。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉大道易者
靜思萬象とはこのことだ。身はボロに包むとは雖も、座前の算木を見つめる老いたるそのまなざし、如何なる事象をも見拔かずにはおかぬといつた威容を示そてゐるではないか、とはいふものゝほんとをいへば二錢三錢を稼ぐ大道易者、陽は旣に西に傾けど、立寄つて觀相を乞ふ一人もなく、徒らに砂芥算木に積るばかり。人生この易學の大家にも、好運の廻り來らざるを痛感してゐるところかも知れない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉下棋[シイヤチイ]
何ともグロテスクなナンセンスではないか。この手、この足、この身なり。誠に人間は手と足とのある動物であつたことが、これによって改めて思ひ起させられる。人世行くところまで行つた人間、疲れるだけ疫れ果てたこの二人に、なほもこの『下棋』を戰はす餘裕の存するところに笑ふに、笑へぬ人世の縮圖が窺へるではないか。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉影戲[インシイ]
いとも朗らかな享樂機關だ。簡單なれども鐘太鼓の鳴り物入り、興業主は、一本の紐によつてこの鳴り物をあやつりながら、向ふにかけられた日清戰争の華々しい場面を、歌と共に說明するのだ。螺集する群集は、一枚の銅貨を投じてその眼鏡口をのそき込んで、たとへそこに現はれた繪が、支那兵の大敗した場面であらうと、この安價な享樂に暫し陶醉するのである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉女乞丐
北支那には女乞丐が頗る多い。女なるが故に食ふに困るといふよりも、女なるが故に、そのしつこさにおいて乞丐として成功し得るパーセンテイジが多いかららしい。見事な銀髪、額の廣き、口元の恰好からみて、この女乞丐、元來の乞丐ではなく、後方の乞丐ならざる女よりも却つて乞丐相に缺けてゐる。しかしその指と額とにみられる皺は、相当な職業的經驗を現してゐる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉中老婦人の纏足
『纏足』と聞いただけでも支那の婦人を聯想させる。弓鞋を履いた楚々たる蓮歩は、楊貴妃などの美を偲ばせる。これは漢族によつて行はれた陋習で、變態的な美の一つとされ、「大脚姑娘」と称ばれることが親の恥とまでなつてゐる。それは脚の美禮讚から出た小脚崇拝からだ。今では法令を以て禁じたので廃つてきた。中老婦人か、田舎娘でなければ見られない。しかし纏足は廃れても小脚の禮讚は止まぬ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉赤裸々な纏足(表から)
その一 幼女が四五歳になると布で脚を緊く搏り、その發育を止めさせる。女は苦痛に堪へず、脚を撫でて哀號する。甚しいのになると皮は腐り、肉は敗れ、鮮血淋漓たるものがある。夜も寢られず食も進まぬ。これからひいては種々の疾病も起る。その悲慘な狀は見るに忍びない。かくして兩脚は生れもつかぬ不具となる。得たものは趣味に富み、魔力があるといふが、實は脚の美によつて快感を覺へ、誨淫の尤となすにあるのだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉赤裸々な纏足(裏から)
その二 この纏足はもと敎坊樂藉のものが、狐媚を飾り纏頭を博するための好奇的技巧であつた。精神分析學では、生殖器の代りに女子の乳房、脚、結髮などが愛慾の對象となる。更に進んだものは身體と直接關係の無い靴とか肌着、腰布の如き裝飾品によつて一切の願望を滿たすものがある。かういう人たちを崇物者と名づけてゐるが、この纏足の觀賞も、一種のフヱチシズムと見てよい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉赤裸々な纏足(側面から)
その三 纏足の禮讃は單なる足の曲線美のみではない。これによつて歩行を困難ならしめ、婦人の外出を防ぐためだといふ說もある。醫學的研究によると、纏足の結果は腰部の發達を來たし、骨盤にも影響を與へ、性との關係にも微妙な方面に展開するといふ生理學上の、大きな働きがあるとも說かれてゐるが、また意外なことまで應用されるとは體驗者の實話。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉洗脚[シーチヨウ]
年中布で包まれた脚は、汗と垢と、塵とで汚れ、特種な異臭を放つので、時々洗面器で洗ふ、それを『洗脚』といふ。臉盤の水がドス黒く汚染されてゐるのを見ても、それが如何に不潔なものであるかが相像される。洗脚のとき男は絕對に寄せつけず、極秘の裡に行はれ、夫にさへ見せぬ程だ。素足を見せるのは極度の恥とされてゐる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉包脚[パオチヨウ]
洗脚がすみ、よく掃き乾かした後、細長い木綿の『裹脚布[コーチヨーブー]』で緊く巻きつける。平素入浴をせぬ支那婦人、洗脚のすが(すが)しさは察しやられる。この脚にもいろ(いろ)種類があつて、小、疲、尖、彎、香、軟、正に分つ、これを七字訣と稱んでゐる。淸末に於ける纏足の盛は、恐らくその最高潮であつたらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉襪子[ソーヅ]を履く
足を巻き終わると、足袋のやうな『襪子』を履いて、その上に鞋を履く。痛むから蹱で歩く。それでヨチ(ヨチ)するのだ。元來女の足が體の中で最も男の心を惹き、小さい程美しい。從つて誰れもが好んで足の小さいのを賞美する。そこで不自然ではあるが、人工的の小脚術が行はれ、その極度に發達したのがこの纏足だ『三寸金蓮』といふ語から見ても、その程度が知られる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉金蓮を履いた曲線美
山東省の大同には每年六月六日に晾(扁日が目)脚會を催ふす奇習がある。この日未婚の婦女は盛裝して門首に座し、脚を伸べて人の批評に委かせ、足の小さいもの程譽を得る。見物は列をつくつて進み、押すな(押すな)の大賑ひ、後ろを振り向くことが出來ぬ程の人ごみだ。脚の選擇によつて緣談が決まる。言はゞ脚によつて決められる一種の見合だ。結婚には顏よりも脚の美が條件だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉一握りの鞋
可愛い掌に載せられた金蓮、小さいが幼女のものではない。立派な年頃の婦人が履くのだ。これによつても如何に小さな脚であるかゞ判かる。この鞋が變態性慾者によつて愛撫されるから面白い。紅樓夢などに記すところの鞋に酒を入れて飮むといふ金蓮盃の如きはその極端なもので、鞋の愛撫は、足の愛撫から轉化したものだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉華やかに飾られた鞋舗
身體全體の形からいつて、手と脚が最も大切な役目をなしてゐる。身體全體に動く表情美と共に、脚から來る感じは深い關心を持たせる。昔は雨になやめる海棠の如しといふ言葉をもつて美人の形容としたが、近頃脚の曲線美を云々するに至つたのも、女性美禮讚の一進步であつて、靴や靴下の裝飾には、大なる注意を拂はれる。五色に彩られた鞋舗の店頭は華やかなものだ。纏足と金蓮は漢民族社會に潛む絕大な神祕だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉迫る歳の暮れ(北京の城外)
十二月二十三日の竈祭がすむと、何となく正月氣分になる。歳の市は日增しに殷かとなり。追々と暮は迫る。往くもの、來るもの、皆春の準備に忙がしい。中央の人物も御多分に洩れず、接神や供物や飾り物、或は食糧などを仕入れた『口袋』と、神に供へる豚の頭とを兩荷に擔いで歸路につく、この姿を見ただけで、迫る暮を想はせる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉松飾り
(寧古塔) 滿洲民族は、正月が迫ると必ず門戸に一對の『杉松』を樹て、それに吉祥の文字を書いた。紙製の『掛錢[コワーチエン]』をつけた繩を張る習俗がある。避邪と吉祥迎壽、家族安泰の意とされてゐるが、日本の門松と〆繩に似た點がある日本のそれは昔し滿洲人の渡來によつて傳へられたものらしい。これは御鄭寧に、二對も樹てられてある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉接神の儀(營口)
除夜には財神を始め、天地の諸神と、竈祭の日に、下界の惡事を王皇上帝に報告のため上天した竈神などを迎へる。それを『接神』或は『迎神』といひ古くから行はれてゐる。これは糧棧の『掌櫃的[チヤンクイデ]』たちが、『院子[インヅ]』に祭壇をしつらへて、神を迎へるところ。それがすむと折角迎へた神を逃かさぬやうにと、あはてゝ戸を締める。その樣子の忙しさは傍から見てゐておかしい程だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉財神を祭る
迎神の儀がすみ、諸神を迎へた家では、先づ財神を祭つて禮拜する。何と言つても寶の神であるからとくに崇められ、種々の供物や酒が供へられる。斗(桝)には三本の線香を立て、黄紙で作つた細長い方形の袋とした『疏』を燃やして叩頭する。その焰が大きく、火の粉が高く上る程緣喜がよいといつて喜ばれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉財神を祭る穀物屋(營口)
祭壇に財神を飾り、その前に『密供[ミーコン]』といつて、井桁に組み、方形の塔柱とした菓子を供へる。神として祀るのは寧ろこれが主體なのかも知れない。祭壇の周圍には金紙と銀紙で作つた。數多の元寶(馬蹄銀)を紐に通してつるす。その前には斗(桝)に紅糧(高梁)を入れ、それに線香を立てて、三跪九拜、叩頭の禮をする。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉敲樂器[クーローチー](營口)
一夜明くれば去年の鬼は笑ふといふ歳の瀨を越すと、一陽來福の春が來る。善かれ惡かれ一年中の總決算を終り、接神の儀に次で財神と家壇の祭りがすむと、着物を着かへ、雜談に興じながら餃子の美味に舌鼓を打つ。屠蘇機嫌に陽氣になつた若者達は、太鼓や銅鑼の合奏を始める。アチラでもコチラでもドンガン(ドンガン)の音が聞へ、殷やかなものだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉紙鳶(北京)
正月と紙鳶とはどこでもつきものだ。朗かな空高く、春風を一杯に孕んだ紙鳶の群を見るだけでも正月らしい氣がする。支那では『風箏[フンチヨン]』といつてゐるが、その種類が面白い。金魚、鯰、龍、燕、鷹、蝶、八卦など、実に多種多樣だが、槪して吉祥縁喜が主となってゐる。日本の奴紙鳶も支那からの移入と見てよい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉元宵節[イヱンシヤオチエ](大連西崗子)
正月の十五日は『元宵節だ。』この日は必ず門戶に燈籠をかけ、宵から火をつける。それで『燈節[トンヂヱ]』ともいふ。暮から種々の意匠を凝らした異形の燈籠が賣出される。北京の燈節は麗しい光景で、小さな紅提燈を路の兩側につるしたものだが、近年はこれも餘程廢れて来た。然し門戶にかけたり、先に松の枝を揷した長桿に燈をつるすことは、今尙行はれていゐる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉元宵賣り(大連西崗子)
支那の正月は『餃子[チヤオヅ]』と『元宵[イエンシヤオ]』を食べることによつて、その氣分が味はれるといふ程だ。元宵は米の粉で作つた團子の中に、砂糖を入れたのを水煮としたもので、いはゞ甘くない汁粉と思へばよい。形が圓いので、家庭圓滿の意として祝はれる。北京の料理屋では正月には必ずこれを出す。人通りの多いところでは露天でも賣る。夜更けに聲を張りあげて賣りにくるのを、一椀味ふのも興がある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉元寶(北京)
南支那では、正月に『粘糕』を神に供へて食べる。音が『年髙』に通しるので緣起を祝ふ。これは江蘇地方に用ひるもので、元寶形の粘糕を串にさし、その周圍を花で飾つて包み、中央に紙製の仙人を配してある。利殖、豐饒、子孫繁榮に因んだ吉祥の偶意を表はしたもので、元寶の形が何に象られてあるか想像に難くない、日本の『おほど餅』などに比べて面白い對照だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉東門から見た城内の街(山海關)
縣城は臨楡縣の所在地で、車站から約半哩にして達し城の中央に鼓樓があり、これを中心として東西南北の西大街は四門に通し、南街は最も殷盛を極む。南關は車站に近く、我が居留民は多くこの門外の街區に住む。東門外に突出の城廓をなすものを東羅城、西門外のものを西羅城と稱し、西關は北淸の役に我軍の占領したところ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉山海關車站(山海關)
山海關は、奉山線によれば奉天から約十時間で着く、こゝはもと關内外鐵道の基點であつて、北平に至るを關内鐵道、奉天に至るを關外鐵道と稱んだ、しかしその後合併して京奉鐵道となり、平寧鐵道と改めた。事変後關外は独立して奉山鐵道となり、平山鐵道と聯絡してはゐるが旅客は此線で乗替へねばならぬ、追つては聯絡の直通車を見るであらう。ホームには支那獨特の氣分が味はれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉燒鷄[シヤオチー]賣り(山海關)
山海關には機関者、鍛冶工場、鋳物工場、木工場、発電所などもある関係から、検社その他のため停車時間が長いのと、朝食も夕食もこゝで取らねばならなぬので、ホームにズラリと併んだ中賣の多いのには驚かされる。圖は名物の『燒鷄[シヤオチー]』即ち丸焼で、これをちぎつてかじるその美味さ、これを味ふのも一興だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉海水浴場(山海關郊外)
北支那に於ける夏の暑さは格別だ。この酷暑に見舞はれた外人達は、家族を連れ避暑地を海岸に求める。秦皇島の次驛北戴河は、早くから避暑地として知られてゐるが、山海關の南岸一帶にも、白砂のうちに楊柳靑松點在し、第一砲臺より石河の海に注ぐところまで、約一里半の間、水淸くして淺く、浴潮に適し、内外の浴客甚だ多い。夕陽を浴びた磯打つ靜波、全く繪のやうだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉海神廟(山海關郊外)
支那海岸の船つき場近くには、必ず天后宮、娘々廟、龍王廟、その他があつて海神として、航海の安泰を祈るのが習はしとなつてゐる。これもその一つ。これは海神廟で海神を祀つてあるといふが、普通の廟祠とは、その形式が異なってゐるのを見ると、他に由緒があるのかも知れない。探つて見るのも興がある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉街路の蹄鐡房(山海關郊外)
この地方は馬よりも驢馬が多く、どこへ行くにもこれに騎る。中には新妻を乘せて亭主は手綱を取つて歩くといふ圓滿振りを発揮し、若者の血を湧かせるものもある從つて至るところ『蹄鐵房』があつて蹄鐵を代へる。圖の驢馬も身動きならぬまで縦横に搏られ、原始的な蹄鐵の交換。傍で見るのも苦しさを覺へる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉天下第一關(山海關)
山海關は一名楡關といひ河北、奉天兩省の境をなし、南は渤海に臨み、巍峩たる角山は北方から灣頭に迫り、屏風の如く繞らした長城の一部を城廓の東邊となし、所謂山と海とによつて成す要關といふのでこの名がある。一夫は萬夫に當たる東方唯一の堅城で、北方から中原を窺ふもの先づ此地を脅かし、歷代の興亡は一にこの要關の爭奪にあつた。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉天下第一關から見た長城(山海關)
第一砲臺下老龍頭から山海關城と相連なつて角山の頂を攀ぢ、右方に迂折して九門口に連り、更に蜒々として北走する樣は、恰かも長蛇が逼ふやうだ。城頭に上り、この風餐雨蝕の大土工を見、三千餘年の昔を偲ぶとき、北方の强胡襲来に備へる、秦の始皇の大抱負が窺はれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉城壁と外濠(山海關)
城壁の高さ四丈一尺、幅二丈、周圍八支里百三十七歩四尺、城周には外濠を繞らし、防備を嚴にせしも、今は水涸れ僅かに小溝をなすに過ぎない。東西南の三門には飛樓があり、東門楼上には天下第一關の懸額がある。圖の右方木橋は、西門外の濠に架したもの城壁の彼方遙かの秀峯は、海抜千三百を有する角山の雄姿。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉南門と城外の商舗(山海關)
隨末から唐宋に亙り戦闘の巷となつたこの地は、明の大宗洪武十四年中山王徐達は兵を率ひて來り、永平府界嶺口その他に三十二關を設け、別に山海關城を築いたのが今のそれだ。世祖が北京に奠都してから、淸帝が奉天の祖陵に行幸するや必ず此地に駐輦するを例とした。嚴めしい警備の武士達が詰所とした城外の平房も、今はいぶせき商舗に變わり、坐ろに時代の變遷を想はせる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉白塔子[パイターツ](熱河省)
林西縣城の東北約百八十支里ワール、マンハ、遼の慶陵にある八角の古塔で、白塔に因んでこの名がある。陵から出土した同窓とその后なる宣懿皇后の哀册により、その陵は八百三十二年前のものであることが知られ、然かもそれに契丹文字が鐫刻されてあるので、從來契丹文字としては極めて少数であったが、この哀册によつて、一千七百字の眞正の契丹文字が發見され、學界を驚倒させたといふ問題の地だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉西剌木倫[シラムリン](熱河省)
西剌木倫とは西遼河上流の名だ。鄭家屯の東南三江口で西遼河と東遼河は合して遼河を成す。西遼河は古の潢水[ホワンスイ]のことで大遼水ともいひ、經棚[チンポン]の南境、興安嶺にその源を発し、經棚の東南に至つて經棚河と称ひ、察哈[ツアハ]、二木倫[アルムリン]の二流を容れて西剌木倫となり、東流三百支里老哈木倫[ラオハムリン]と号して西遼河となる。河床淺く水運の便はないが、河身は蜿蜒として東蒙の沃地を潤はす。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉今は街道昔の湖底
{熱河省開魯縣} 鄭家屯から大興安嶺に至る地方には、黒い沃土に被はれた大平野がある。曾ては想像もつかぬ大きな湖水を成し、滿々と淸水を湛へてゐたが、今は涸れ切つた平地となり、砂塵に被はれた街道は、舊湖邊に沿うて往く。そこらを通る人達は、湖底と氣附くものもない。圖は開魯から林西に通する街道で、道路の左側は湖邊の崖。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉初生砂丘
{熱河省林西の西南} 滿洲の砂丘は、その成因によつて風成砂丘、河成砂丘の二つに區別される。大陸の甚だしい寒暑の差と、氣候の乾燥は、石英に富んた岩石を風化させ、分解して砂となす。またこの地帯を流れる河川は砂をその沿岸に沈積する。これ等の砂は列强な季風に煽られ、草原は變して砂原となり、砂原は化して砂丘となる。圖は初生砂丘の代表的なもの。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉砂丘と遺蹟
{熱河省林西縣} 打通線の通遼驛を發し、幾日かの旅程、開魯を經て大興安嶺に向ふと、うねりうねつた波狀の砂丘か限りなく續く。その地帶の中には舊湖底がある、湖邊には石器時代の遺蹟があり、石器が發見される。夏の砂原、灼きつけるような熱砂は人馬を昏倒させる。焦熱に倒れた憐れな駱駝、流砂は心なくその枯骨を包む。圖は湖邊の遺蹟地。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉蒙人の農家(熱河省開魯附近)
この地方はもと未開の蒙地であった。一度招民開撫の奨勵があつてからは、この沃地を拓くべく移住する漢人は日增しに多く、遂に今日の盛をなすに至つた。遊牧移動の蒙人は、漢人からその文化を學び、家屋もそれに做つた。然し穀倉は依然として舊態を脫しない。その大形のものは時に寢室に充てることもある。この穀倉の様式は滿洲の特徴で、一つは普通、二つ以上は珍しい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉開魯の街(熱河省)
この地は、もとターリン、ソブルガといひ、蒙古王旗、西札魯特旗の所領であつたが、光緒三十一年と三十三年の二次に亙つて開放され、開墾局を設け、招民開墾を奨勵してから、人口が漸次増加し、三十四年に置縣された。民國元年蒙匪の擾亂に際し兵燹に罹り、全部灰燼に歸したが、交通發達と地方産業の振興に伴ひ、漸次繁榮に向ひ更に民國十三年通遼の洪水後、商店の本據を此地に移し、異狀の發達をなし、前途頗る有望視されている。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉赤峯(熱河省)
この地は蒙古翁牛特左翼旗の領域に在て、市街は英金河に臨み、東は砂丘を負うてはゐるが、四通の地で、西南は熱河を經て北平に、平泉を經て天津に通し、東南は朝陽を經て錦州に通し更に營口に連ね、又凌源と綏中を介して山海關方面に連絡し、西北は林西、經棚に、東北は開魯に通し、東蒙に於ける最大市場で、將來交通の發展に連れ諸工業の勃興と、農業の改良と共に、その發展は期して俟つべきものがある。我が領事館の所在地。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◉林東の街(熱河省)
開魯と林西の街道から北寄りの街で、巴林左旗に屬し、阿魯科爾沁旗との境に在つて、戶數は僅かに數百に過ぎないが、農業、商業と共に軍事的にも北鎭の要地だ。民國十年巴林左旗東部地方の招民開墾が行はれてから、遼の都臨潢府であつた博嚕胡屯に縣置所を設けて林東縣と稱へ、この古城に因み、古城縣ともいつた。附近に巴林王府がある。巴林の東にあるから林東、西にあるから林西といふのだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●半截塔(パンチヱター)と土城(熱河省林東)
林東の南にある金以前の古塔で、恰も上半部は崩壞し、下半部のみを殘したかの如く見へるため、半截塔の名がある。然し圍場縣と阜新縣にも同形のものがあり、半截塔が特徵となつてゐる。これは熱河省北部に於ける塔の一樣式と見てよい。塔下の土城は金の都らしい(或は遼ともいふ)。川は城の中央を流れ、殷盛のその昔が偲はれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●蒙古人の部落
その一(熱河省) 興安嶺の東麓には、綠草で被はれた丘や平地がある。その丘陵に包まれた南向の日當りのよい處には部落が出來る。沙漠の移動に追はれた遊牧の民は、こゝを安住地とするので、移動式の包も必要はなく、これが柳條や黍穀で作つた固定包に變り、民は耕農もすれば放牧もする圖は白塔子より慶陵に出る途上。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●蒙古人の部落
その二(熱河省) 興安嶺を東に下ると、そこには固定包もあれば漢人化された家屋もある。然かも匪賊除けの土壁を繞らし、それに銃眼を設けた砲臺さへも作られる。遊牧民の貧しさに引かへて、耕農民の富祐さが知られる。白楊柳やポプラの森に包まれた一區劃の中には、數十家族が住んでゐて、それだけでも一部落をなす。圖は頂上を下つて林西に向ふ途上の部落。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●草原の放牧(熱河省白塔子附近)
興安嶺の嶺西は一帶の砂丘で、草原は尠ないが、嶺東にはこうした草原が多く、家畜の放牧には最も遠した地だ。未明に一部落の家畜全部を引連れて出て共同放牧をやる。あちらこちらに廻はつて日暮に歸る。家畜も馴れたもので、部落に入ると自ら我家に歸り、誤つて他に紛れ込むなどは決してない。然かも數百頭の家畜を、一人の子供か老人か鞭一本で指揮する。その技術の鮮かさには驚ろかされる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●草原の喬麥畑(興安嶺の東麓)
草原の中に白く見へるのを河と間違へてはいけない。あれは眞白に咲き誇つた花盛りの蕎麥畑、綠草を彩る白の配合は實に美しいもので、興安嶺の東麓にはこれが到るところに見られる。元來支那人は蕎麥を好まぬが、蒙古人はよく愛食する。日本人の蕎麥好きなのも蒙古人に似たところがある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●井戸傍の婦人(熱河省林西縣タマチンプ部落)
砂漠の蒙古では、一滴の水を得るのも容易でない。若し水泉があれば、オアシスとして商隊はこれに集る。砂漠の旅は、水が目標であり生命である。然し興安嶺の東麓には、砂丘地はあつても水流が多く、水は豐富だ。井戸を掘れば直ぐに湧き出る。婦人は井戸傍で洗ひ物もするといふ贅澤振り。熱河地帶が嶺西に比して耕農に適するのも、この潤ひがあるからだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●三連の穀倉(熱河省林西縣黑木[ヘウカト]附近)
前號に二連の穀倉を紹介したが、これは更に珍らしい三連式である。南滿にも稀れに散見するところであるがこの穀倉は前にもいつた如く、蒙古の包から進化したもので、建築の發達を知る上に建築學、考古學、或は人類學方面の學者から、研究の好資料として多大の注意が拂はれてゐる特種のものだ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●興安嶺の頂上(察哈爾省)
熱河省と察哈爾省との境を成す興安嶺は、黑龍江が北へ大灣曲をなす頂點附近に起り、東北から西南に延びて、凸面を東南に向けた弧狀をなし、その延長は一五〇〇粁に達し、高さは熱河省の北邊、蘇科魯山嶺に在ては海抜二一〇〇米を示してゐるが、多くは一〇〇〇乃至一六〇〇米を普通とする。嶺の西椽は傾斜極めて緩やかで、平原との高差は僅かだが、東椽は急斜して斷崖をなすのが特徵となつてゐる。圖は東浩濟特から頂上を越すところ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●興安嶺の東麓(熱河省)
興安嶺の頂上を越へて、足一度び熱河領に入れば、道は山復に沿ひ、蜿蛇の如く縫ふて平地に下る。そこに東西兩側に於ける山貌の著しい相違が認められる。それは亞細亞大陸の、東方椽邊にある數段の陷落地の内、最も重要な一階段をなす斷層崖であるといはれてゐる。頂上から東方の平野を展望すると、嶺西に見られない綠の草原と火耕の民とがある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●水の興安嶺(熱河省白塔子附近)
興安嶺の名は蒙古語の砂丘の意で、風によつて絕へず砂を吹き送る山のことである。その發音のSinggha が訛つて興安[シンアン]Singan に轉したもので、砂丘は東北、西南の兩端と、その西椽とに沿ふて發育するが、東麓には見られない。それのみでなく渾々と湧き出る淸流もあれは、ドロ柳、白楊の疏林もある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●興安嶺の山骨(熱河省二家子附近)
興安嶺の山骨を成す岩石は、變質岩や古期花崗岩類であるが、一部には比較的新しい粗面岩や玄武岩の如き噴出岩の迸發もあつて、ハロルアルシヤンには溫泉の湧出もある。それは火山性活動の餘波だろうといはれてゐる。圖は林西から白塔子に出る途上、二家子附近の露出地。小祠は土地神で豐饒の神として厚い信仰がある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●氈子を縫ふ女(察哈爾省呵巴嗄王府)
蒙古の移動包には、防寒用として周圍に氈子を張る。それは羊毛を地上に敷き、淡い凝固劑を入れて濡らし、その上を木製の轉子で壓し固めたもので、一種の重い毛布と思へばよい。 零下何十度の酷寒も、この氈子で凌げる。毛のホツレを防ぐために、定規で線をひいて、その上を糸で縫つて行く、それは皆女の役だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●經典を積んだ駱駝隊(察哈爾省)
蒙古では、吉凶、病氣、集寶、家畜繁殖、豐饒その他一切の生活上の問題は、すべて喇嘛の祈禱によつて、意の如く解決され得るものと信じられてゐる。從つてこれがための喇嘛の祈禱は、念の入つたものになると、月餘に至ることも珍らしくない。 この祈禱に要する喇嘛の經典は、牛車や駱駝に積んで數十里の遠地にまでも運ばれる。祈禱のため財を傾けてもなほ惜しいとは思はぬのであるから、信仰の力の恐ろしさを思はせる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●旅の乞食女巫(東蘇尼特)
今日蒙古では、喇嘛教が代表的宗教となつてゐるが、蒙古に喇嘛教が入る以前から信仰されてゐたのは薩瞞教であつた。今は薩瞞教としては廢れてしまつてゐるが、喇嘛のうちにこれが幾分とり入れられてゐるのもあり、北方ブリヤート族の間には強い信仰となつて殘つてゐる。 薩瞞教は一種の自然崇拜から出たもので、男女の巫があつて、占卜や術呪、加持祈禱をやつてゐるが、廟祠もなければ教典といふべきものもなく、たゞ口傳の呪文をもつてゐるに過ぎない。圖はそちこちと渡り歩く乞食女巫のプロフイル。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●柳條製の圍子(察哈爾省蘇尼特右旗)
蒙古の沙漠地帶では、一本の木すらみられないが、伏流の湧き出る濕地や、湖沼の附近には、僅かに矮性の柳條だけは育つ。これが編まれて籠やその他の容器となり、穀倉、牛糞の貯藏所、半固定包の圍子[ウエイズ]にまで利用されるといふ重寶さをもつ。圖は柳條のない地方に、牛車でこの圍子を送るところ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●燃料の牛糞(察哈爾省多倫の東バヤトノール附近)
草木の尠ない蒙古では、唯一の燃料は牛糞だ。子供や老人は、未明から放牧地に出かけ、これを拾つて籠に入れて歸り、それを固くならぬうちに手で塗り、積み上げて山となす。この牛糞が多いほど富裕の印ともなる。圖は乾燥した牛糞の山へ、蒙女が更に新しい濕れたのを塗つてゐるところ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●露天の菓子賣り(察哈爾省多倫の東バヤトノール附近)
蒙古人の商賣は主として物々交換であるが、必需品は出來るだけ自分で作る。然かし大きな部落や祭典などには、牛奶餅或はその他の菓子を賣る露店もある。小籠の上に白布を擴ろげ、その上には僅かの菓子を列べて客を待つ。これでも彼等にとつては立派な商賣になる。物賣の多くは女の役だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●粟を搗く女(察哈爾省多倫の東バヤトノール附近)
蒙古の砂丘地帶には、處々に湖水の跡があつて、そこには僅かながらも耕地があり、粟も出來れば蕎麥も出來る。収穫の粟や蕎麥は、石器時代の遺物とでも言ひたいやうな小形の臼に入れ、棒狀の杵を搗く、見るからに古代民族の原始生活を想はせる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●小兒の自然淘汰(察哈爾省)
蒙古には、小兒は出來るだけ裸體で育て、皮膚を強め寒氣に慣らす習俗がある。これに堪へ得ぬ虛弱な兒は自然人生の行路から蹴落され、頑強なものだけが殘るといふ、一つの自然淘汰が行はれてゐる譯。蒙古人が過去において強かつたのも、このマビキがあつたからかも知れない。 この自然淘汰は人間にみるばかりでなく、蒙古の鳥もまた、弱い雛を巢から蹴落して、強い雛のみを殘して育てるとは、蒙古で見て來た人の直話。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●羊の料理(察哈爾省東齊特)
羊の屠殺は男の役であるが、時には女も易々とやつてのける。しかし男が蒙古刀で心臟を突いて屠つた後、女が料理するのが普通だ。血液から臟腑まで、一切棄てずに何かに利用する。殊に腸などの處置は馴れたもので、實に早いものだ。汚物の掃除は犬の役で、餘すところ何物もない。圖は蒙女が臟腑を處置するところ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●盛粧した參詣の婦人(察哈爾省貝子廟)
正月と八月に催される喇嘛寺の祭には、近鄕在所から參詣する善男善女の群で大したものだ。金銀珊瑚や寶石をちりばめた冠を頂き、あでやかな色彩の頭巾を被つて、盛粧した婦人達が肥馬に跨つた姿は、まるで芝居を見るやうだ。蒙古人は幼兒の物心つく頃から馬に乘るから、乘馬の術は實に巧妙なものだ。それがため自然と足が彎曲するので、歩き方は妙に肩を左右に振る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●貔子窩の海岸(金福線)
貔子窩は關東州海岸の主要港で、雍正初年に開埠され、曾ては賛子河口の西岸に在つたが、流す泥土のため河口に(?)は埋められて今の地に移つた。往時は沿岸唯一の戎克の貿易港として殷賑を極め、露國が大連の築港をなすや衰退して寂れたが、今は再ひ活況を呈し、市街は山の斜面に延びつゝある。日淸日露の兩役に我軍が上陸した地として有名だが、最近まで馬賊の巢地としても知られてゐる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●泥海を滑る舟(金福線)
賛子から吐き出す泥土の量は大したもので、自然に埋立した海岸は、干潮時には遠く一里餘の沖合まで泥海と化して、東は碧流河の河口附近まで達し、壹千萬坪に近い鹽田はその一部を加修したものだ。干潮時に於ける親船を陸との連絡には、平底の小舟で泥の上を滑らせる。その奇觀は名物の一つと言へる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●明媚の水鄕(金福線)
貔子窩灣の西端突角に巖窟がある。そこに貔子が棲んでゐた。貔子窩の名はそれに因んだものだと傳へてゐる。灣內に沈積する泥土は、潮流の關係からこの突角が境となつて、その西方の海岸は小砂利と白砂で包まれた長汀をなし、水淸く海水浴に適する明媚の水鄕は、彼の泥海と比較するので一層美しさを感じさせる。雲泥の差とはこのことだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●海岸の魚市場(金福線)
貔子窩灣は遠淺の為め、冬期四箇月間は海水結氷の不便はあるが、この沿岸から長山列島にかけて漁撈が盛んだ。獲物は大連から仕入れに來る發動機船によつて大部分は沖合で取引されるが、雜魚や蚆蛸は陸揚げして市場で小賣される。長山列島の蚆蛸島は、蚆蛸が多いのでこの名がある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●陶土產地(金福線貔子窩郊外)
貔子窩附近の地質は片岩であるが、長石に富んだ巨晶花崗岩[ペグマタイト]の岩脉がこれを貫き、その主要成分たる長石は分解されて白色の陶土となり、各所から發見されてゐる。質も良く量も多いので、窯業材料として盛に採掘され、關東州內に於ける有用鑛產地の一となつてゐる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●城子[田+童]曈の街(金福線)
城子[田+童]曈は貔子窩の東方五邦里、碧流河に接する市街地で、金福鐵道終點の地だ。もと歸服堡と稱ひ、城子[田+童]曈の名はこの城堡に困んで起つたものだと謂はれ、今尚舊名を用ひるものもある。元來この地は小さな漁村であつたが、河口港としてかくまでに發達した。同じ市街地でありながら、一つの道路を狭み、南は關東州、北は州外復縣に分れ、各行政機關が異ふのも、國境町の極端な奇觀である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●歸服堡の城跡(金福線)
丘の南側に一つの小さい古城がある、これが本來の歸服堡だ。僅か二町ばかりの方形の土城で、土壁の完全なところは高さ一丈もある。土壁の上には木が生ひ茂つてゐる。城門は南と東北隅にあるが、これは昔の通路であつたのであらう。城内は東南寄りに十戶ばかりの民家が並んでゐるのみで皆畠だ。明代に在つて海冠に備へた沿海城趾の一つである。圖中正面の土手は城壁の廢跡。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●石頭『歸服堡』(金福線)
城跡の東南隅に接して三淸廟がある。開基は詳らかでないが、五百年前の古刹だと謂つてゐる。その東側の磚壁に『歸服堡』の三字を刻んだ石額が積込んである。もと堡城に掲げたもので、歸服の文字は海冠の投降を記念したものと傳ててゐるが、和冠の活躍が偲ばれ、荒廢した古城と共に懷古の情禁じ難い遺物だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●娛姑寺(金福線)
娛姑寺は城子[田+童]曈の街の西北約七邦里の地、巍霸山の中服にある古刹で、ケンチ石を以て積まれた石城の中にあり、看音と天后を祀り、堂宇の華麗宏大さは稀れに見るものである。境内の古碑によると、古いところでは萬歷三十年に重修したといつてゐるが、もと淸泉寺と稱ひ、巍霸山城は更に古いもので、曾ては倭冠の防備に用ひた時代もあつた。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●謝家屯の淸鄕(金福線)
謝家屯は城子[田+童]曈の東南約一里の地で、碧流河口の勝地として知られてゐる。蜒々として沃野を流れる碧流河は州境をなし、對岸は岫巖嶺だ。河岸の斷崖に立ちて一望すれば、兩岸に沈積した白砂は海邊の如く、水淸くしてその流れは碧い。碧流河の名もこれに基づくものだ。歸帆は初早春の陽光を浴び、小波を蹴つて行く。この大陸的な水鄕は全く一幅の繪だ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
春近し
亞東印畫輯新年號附錄 -
曠原=蒙古=
新年附録 大連市淡路町 亞東印画協會 亞東印畫輯第百〇二號附錄