亜東印画輯/02
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●ろふそく岩の碧潭(灤河)
黝黑の巖かげに、よどめる灤河の水は、碧潭をたゝへて、しばしその流れを止める。遙か河上の山迫るあたりに、結べる露の一ト雫が、胡沙吹く蒙古の沙漠に、一條の河となつて流るゝ水の運命も奇しいではないか。今日は淵となりあすは瀨となつて流轉百數十里、喜峯口のあたりで萬里の長城を突破し、塞内に入りて南流渤海に注ぐ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●灤河吟(灤河)
源を塞外獨石口から東北百三十支里なる巴顔屯圖古爾山[パーイエントントコールサン]に發した灤河は、熱河を過ぎる邊りから諸水を集めて、再び山峪に入る。元の宋本の詩に灤河上游陿涓涓僅如帶 偏嶺下横渡 復遶行都外 頗聞會衆流 既遠勢滂沛 雖違禹貢道 獨與東海會 乃知能自致 天壤無廣大(印畫の複製を嚴禁す) -
●長城附近の潮河(古北口)淸の高士奇の詩に平野忽紆緬
上下踰阡陌 廢縣古■(がんだれに辛)奚 縱横堆亂石 水勢西南流 斷岸黃沙積 巨浸連白河 廻環接地脉 古砦餘頽基 當年北疆畫 浮梁度翠輿 撇洌競輕策 夏雲行晶晶 曦光淡將夕 六月塞上山 巖嶂生新碧(印畫の複製を嚴禁す) -
●曳き船(灤河)
下り四日に上り半月の灤河の船子渡世もなか(なか)に容易な仕事ではない。上り溯航の船路は殆んど鋼一本の曳船によらねばならぬ。鐵幹のやうな船頭達の兩脚は日と水に晒されてブロンズの如くに光る。(印畫の複製を嚴禁す) -
●灤河の船運(灤河)
灤河は到るところ瀨が多いため船の形は所謂底の淺い高瀨船である。船頭は水深のある處では櫓代りに櫂を用ゐ、淺い處では棹を操り乍ら曳船をやる。山地帶の谿谷に入れば急流激湍も少くない、兩岸屏風のやうにつッ立つ峽中の巖角を左右に屈曲して奔流にまかせた灤河下りの快は實に言外である。中流の熱河特別區域方面への物資の輸送は殆んど此の水路に依るので、熱河から灤州迄下り四日、上り十四日内外を要する。(印畫の複製を嚴禁す) -
●灤河の風呂敷帆(灤河)
灤河の舟行に珍奇なる風景を添ゆるものは、あの風呂敷帆である。水深ければ追手に帆を上げ淺ければ岸傳へに曳船をする。田の字形に張られた風呂敷帆は又夜の舶り或は雨の時など屋根の代りをもする。それだけ簡單な灤河獨特のものである。(印畫の複製を嚴禁す) -
●舞踊天女(山西省雲岡)
中央第二窟の大佛の奥龕を圍んだ突壁に彫刻された等身大の舞踊の群像は、下手な修理のために甚しく原型の價値を傷けて居るかの感があるが、その假面を落させると優秀なる昔の面影を表現させる。まる(まる)と肥つたいかにも淸浄の處女らしい容貌體格をした十体の女像は踊るが如く輕やかに右に左に立つて居る。尊敬よりも寧ろ愛情を起させる程の感銘を與ふるものである。背光に希臘神メルキユウルの羽を着けて居るのも特殊なものであるが服装は北魏佛の特長である裳をX形に交叉して居る。(印畫の複製を嚴禁す) -
●後宮嬉戯の圖(山西省雲岡)
藝術的衝動といはふか、宗敎的感激といはふか、その何れにせよ觀るものをして原始的で而かも素朴なる手法を以つて表現された釋迦傳のレリーフは、確かに雲岡に殘された人間の靈魂の深い要求をその技巧に表徴したものである。悉多太子は後宮に於てみめ美はしき婇女等と嬉戯して居る圖であるが、或者は強いられたる酒を拒んで互ひに争ふが如くに半ば倒れ、或者は醉陶の餘り脚と脚とを絡み合つて相抱いて居る。後宮を廻る妖艷の空氣は春の光と共に濃く、年若き太子は左手を擧げて稍々これを制するかに見ゆ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●西方窟全景
二(山西省雲岡)沙岩の丘陵がうね(うね)と連なつて幾百千の石窟の中に藝術と信仰の永遠の光をとどめた雲岡の風光は今は閑寂の裡に懷古的感激を訪ねるものに與へずには措かぬ。木下杢太郎氏は此の地方の風景を敍して「全く朗かなる代赭色の砂岩層を主調とし田園も家も壁も皆そのニユアンスで、唯少しの綠が釉藥として懸つて居るだけである。「素燒の村」とも「桂興釉の田園」とも稱すべく全村を擧つて大陶器たるかの感を抱かせる」と言つて居る。(印畫の複製を嚴禁す) -
●禮讃の女像(山西省雲岡)
大同石窟の中に吾々の感ずる驚異は、その彫刻の作意がすべて人間味の旺溢して居ることである。從つて釋迦といはず菩薩といはず如來、天人その他のものが如何にその表現が生命の力に滿ちて居るかは、一度あの靈巖の洞窟に這入つて見出さるゝ累々たる群像の世界に呼吸のつまるを覺ゆることに依つても知られる。中央第三窟後室の前壁に浮彫された佛禮讃の女像は殆んと裸形に近い羅衣をまとふて跪坐合掌の處女の如き姿態は、如何にも自由奔放なる鑿の痕を止めて、見るものをしてある一種の艷めかしさの美に打たしめる。(印畫の複製を嚴禁す) -
●寒泉洞支提塔(山西省雲岡)
大同の彫刻に建築上の樣式として遺存されて居るものも少くはないが、大体塔の形態を以て遺されて居る。此塔は下部は著しく風蝕を受けて破損して居るが第二層第三層の屋根が本瓦葺の様式を現はし軒の組物や人形の蟇股を彫つた邊りは我が法隆寺の建築に見出さるゝ推古式のものと一致して居るが、それは謂ふ迄もなく此の雲岡の北魏式を傳流したものである。(印畫の複製を嚴禁す) -
●多面多臂神(山西省雲岡)
雲岡藝術の最も傑出した而かもその意匠構圖に於て最もグロテスクな感を與ふる彫刻で中央第四窟のアーチに東西の兩壁一對をなして彫り付けられて居る。五面六臂の怪神は伽羅樓鳥の背に坐して五つの肖像[ポートレイト]は各々快美なる微笑をたゝ江、左の正手には胸高に小鳥を支へ、左右の第一手には日月の兩輪を高く捧げ、左第二手には弓を持し右方は缺け損じて居る。この作品の特長は支那固有のものでなく、希臘、印度にその源泉を汲むべきもので西域地方から入つた健陀羅藝術の傳統を引くものだと言はれて居る。(印畫の複製を嚴禁す) -
●古北口の街
長城の山嶺を境に北京の裏合せに古北口の古驛がある、塞外北路の第一關で潮河に沿ふて建てられた街であるが、遙かに峯の脊を匍ふ長城の景色は此の村の歷史を物語る。幾度か北狄のためにこゝは兵亂に見舞はれ掠奪に遭つたことだらう、文華の中心である北京と淋しい古北口驛との對照は長城を中間として支那史乘二千年の消長を語るものであらねばならぬ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●駄驕(熱河附近)
地博物大の支那にはものを運搬するために古來色々な乘物が案出された。山地、平原、河海それ(それ)の地方に工夫され原始的な乘物は今も尚吾々にある興味をそゝる。車輪に不便なる山地帶には遂に馬背を利用した所謂駄驕が出來た、態々馬を用ゐる位なら驕まで負はせなくともと考へるのは日本式で、之れは矢張駕籠まで馬に荷はせるところに支那人の特性が現はれて居る。(印畫の複製を嚴禁す) -
●峽中の船(灤河)
河は豁谷に入りて兩岸の山容壁の如く迫り峽水幾曲折を經て、或は淵と澱み或は瀬と奔つて水態愈々奇勝を呈する。一竿の掉にまかせた船からは時に船頭の船唄を聞く、蓋し太古の如き自然の世界に靜中の動たるを失はない。(印畫の複製を嚴禁す) -
●午時の一ト息(灤河)
曉方から流した船は幾十の山谷に送り迎へられて瀨を超へ淵を通ふて、午時の一ト息を、ある山裾の岩かげに𦩘舶して、粟飯に舌皷を打つ船子等は、やがて行主の今日の船途を語り合つて居る。灤河沿岸には時々匪賊の出没するものがあつて船人達を惱ます。(印畫の複製を嚴禁す) -
●沿岸の小市場(灤河)
高瀨船の上り下りに灤河沿岸の部落には時に小さいマーケツトが開かれる。下流から運ばれた物資は時に野菜と或は麥粟と交換されて沿岸の住民を祝福する。しかも舟人の齎す河筯各地の消息は部落の小さい世界を廣くして呉れる。(印畫の複製を嚴禁す) -
●河水淸(灤河)
山むらさきに香ひて、天[そら]の雲黎明の光に輝くとき、地上の河は永しへに淸き流れをみだして曲水を描く。年新たにして、原始の自然はおごそかなる人類への聖壇の如く、素練の絹を流したらんごとき涓滴の河水も一脈の生動を與へて、世界の極[はて]にまで、曙の色の中に甦る生命のおとづれを傳へる。(印畫の複製を嚴禁す) -
●釋迦説法(山西省雲岡)
東方第四窟東南壁に深く穿たれたる龕の中に納められたる座像の大佛は作品としては决して優秀なものではない。併し此の佛像は外の諸窟のものと趣を異にし表現は纎細であり且つ氣分は著しく支那化して居る。而して此の巨大なる佛像の下方巧みなる忍冬模樣の臺椽を境に釋迦一代の畫傳がレリーフとなつて描かれて居る。此の畫傳は健陀羅系統のもので後宮歡樂圖の作意がバツカス思想の傳流して居る處に希臘藝術とも契合するものとして北魏美術の特長を高唱されるものである。(印畫の複製を嚴禁す) -
●丸彫の立像(山西省雲岡)
自然の風蝕に曝された石窟の壞滅は見るものをして心を痛ましめる。蕭々たる廢趾を想はしむる幾多の壁面佛龕の中で、殊に哀愁の念を深くし愛惜を禁ぜざらしむるものは此の西方第四窟に見出さるゝ一菩薩を圍遶する年若き比丘尼の諸像である。その丸彫の柔かな線は少女の純潔性を遺憾なく現はして、消江ゆく永遠の魂のやうに美しき微笑を壞れ易き形骸に殘して立つて居る。(印畫の複製を嚴禁す) -
●六朝佛の典型(山西省雲岡)
六朝佛の典型として西方第二窟に見出さるゝ此の像の莊嚴なる面相[すがた]は一千數百年前の敬虔な信仰に燃ゆる作者のヴエジヨンを今になほ偲ばしめる。廣い額を支ふる美しい柳眉は正しい鼻梁の垂直線の上端に輕い圓弧を描いて、その下には端正そのものゝ如き兩眼が安らかに閉ぢられる。口元の窪みに湛江られたる無限の愛の泉はふくよかなる兩頰に圍まれて、唇の下にほのかなる溝を作つた處に北魏佛の特長を表はして居る。「永遠の女性」を象徵した作として渇仰に價する。(印畫の複製を嚴禁す) -
●西方窟全景
一(山西省雲岡)北魏が山西の大同府に都をさだめて六朝文明を創剏したことは支那文化史上の一偉觀である。雲岡靈巖の石佛寺は文成帝の時、曇曜といふ沙門の進言によつて開鑿された佛敎藝術の一大殿堂であるが、今から一千四百年前の遺跡として世界的價値を有するものである此の石窟に遺存された大小數百の彫刻は西域地方から輸入された希臘印度の思想と北支柘跋民族の藝術的天才との接觸交流に依つて出來上つたもので、朝鮮から日本に這入つた所謂推古式佛敎美術の源流をなすものとして宗敎的に見るも藝術的傳統から見るも吾々の精神界の故土であらねばならぬ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●相抱く双塔山(熱河附近)
相抱く双塔山の奇景は、山襞紫にかぐろふ連山の常軌的な山川の雜景の中に、飄逸として神話的な景色を現はす。巖頭には何時の頃よりか祭られけん、小さき古廟にも支那人の民族的習僻を表はして居る。嚴肅冷靜な自然の一面にも尚こうした洒脱に■(りっしんべんと、もんがまえに舌)達なくつろぎを見せる。(印畫の複製を嚴禁す) -
●支那素麵(北京郊外)
澄み渡る秋の日の閑寂に浸りながら何となく心の底に輕いアンニユイを覺へつゝ、路行く人の影をさへなつかしまれる郊外の裏道通りに、ふと見出されたるは豆素麵を造る人の家であつた。銀線のやうな幾千條の粉條子の糸が秋の日に映じて美しい光を輝かす。自然は靜謐の中に生活を育くんで人は工作の勞を知らない。煤煙と喧噪と搾取と爭鬪との間に自らの生活を機械化して居る近代人は、斯ふした生活の安住者を羨しく思つた。(印畫の複製を嚴禁す) -
●四ツ目井戸(牛欄山)
熱河への途上には諸所行宮の舊跡を見、到るところ山高く水淸き風光に接する。從つて街道の諸驛に發見される珍らしく古風な井戸には小さき郷土的なローマンスを殘して居る。四ツ目に堀られた石井戸の椽が深き磨目を刻んで幾百年の星霜を村人の汲むがまゝに生命の泉を與へて來た。何時の頃からか此邊の水が高粱酒の釀造に利用されて牛欄山の銘酒は今では北支那隨一の産物となつて居る。(印畫の複製を嚴禁す) -
●看板の門(北京郊外)
商賣の標識として店の看板を極端に誇大化することは支那人の趣味らしい。部落に入ると今にまだ賣品の現物標識を店頭に吊して看板にして居るものもあるが都會風に變るに從つて色々な裝飾や文字で飾り立てるそれが田舎から都會へ近づくにつれて如何にも物々しいものになる、北京郊外に見出された石炭屋の此の門看板の如きは、時代的に考へると頗る過渡期的のものであるが確かに看板標識としては代表的のものである(印畫の複製を嚴禁す) -
●瘤お爺(熱河附近)
瘤自體がすでに東洋的ユウモレスクを表示して居るこの村の男も女もが瘤の所有者であることが美人の條件であるか怎ふかは知らない、併し瘤のないことは外來者扱ひされること程さように瘤は部落人としての一資格である。山地帶によくある風土病で、アルカリ性飮料から來る病氣だ相だ。瘤取物語の翁のやうな爺さんを前にしてピントを合せるなどは噺の世界に居るやうな心持がする。(印畫の複製を嚴禁す) -
●古北口附近の長城
夕陽に赤く爛れたかと見ゆる萬里の長城を負ふ古北口の山は凄愴の氣を以て暮れ行く秋の空に聳つ。鳥も通はせぬとばかり天險の上にも人工を加へた長城の怪偉なる姿は漢民族の偉業であると同時にまた北方民族の威壓でなければならぬ。自然と人生との交錯、異れる血と血との鬪爭を表徵して居るかに見江る此の長城の歷史的印象は永遠に人の心を捉へる。(印畫の複製を嚴禁す) -
●古北口を壓する萬里の長城
稜々たる山の脊を走る長城も、こゝにさゝやかなる農家を抱いて潮河に裾を濡すところ、稍センチメンタルな情趣を見せて居る。秋の空は臙脂紫にかぐろひ、山襞の深い陰影は怪しくも人の心に懷古的な感情を湧立たせる。而して長城にからむ傳奇的な氣分は脚下の古北口から起る。(印畫の複製を嚴禁す) -
●枕賣る小娘(石匣)
小娘の枕賣り、それは徃き交ふ熱河街道の無聊に、輕やかな情感を溶かしてゆく旅の一挿話でなけらねばならぬ。小さな驛路の石匣には旅人と見れば、美しい刺繡の枕を抱へた小娘達が纒足の「蠱感の舞踊」を體軀一ぱいにうねらせて、旅行く人に媚と枕とを賣る、昔東海道の五十三次邊りに見られたやうな古典的情景である。(印畫の複製を嚴禁す) -
●正月の街飾り(蛟河にて)
吉林に行つて正月にもの珍らしく感じたのは樅の木で門飾りをすることである。初めはクリスマスツリーかとも思つたが到る處の都邑に街路樹のやうに美しい樅の木の綠が雪に映じて立てられる處は此の地方の特殊なる風習らしい。而して街頭の上空横に幾筋ともなく正月の切紙を吊して此の樅の門飾りを美化する。寫眞だけで判ずれば内地の城下町といふ光景だ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●鏡泊湖の瀧(吉林省)
北滿牡丹江の流域は古昔女眞族の故土として史蹟に富む。東京城の西方約四十五里の處に鏡泊湖の出口に一大瀑布がある、落差約五丈、冬枯れの時でも尚鼕々瀑音を傳へて物凄じい。左岸近く古廟趾を眺め、傳説に依れば瀧の背には金の國祖を葬る處として神聖視されてゐる。土人此の瀑布を一名吊水樓と呼ぶ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●蛟河[ジヨーホ]の歳暮[くれ]の街[まち](額穆縣)
雪に覆はれた草ぶき屋根が兩側に列んで歳暮の街は今歳の市に賑つて居る。屋根の前方に■(がんだれに相)を下した處、餘り支那家屋には見ない形式である。或は特に雪の多きが爲めか否か。額穆縣城に近い蛟河の町の景色で人口六千、木材の産出を主とする。吉敦鐵道豫定線中の主要驛の一である。(印畫の複製を嚴禁す) -
●吉林山中の杣小屋(敦化附近)
自然の處女林、千古に斧の入つたことのない吉林の山奥、ひそかに忍び込んだ盜伐團の一隊は、手當り次第巨木良材を伐り倒して、雪中を人里近く運ぶ。彼等の伐り出す木材は大低値の高い棺材にされるものだ。山中にも曆日のめぐり來りて、杣小屋には世間並に仔豚の丸煮が凍結して入口のあたりに轉がつて居るのも正月らしい氣分がする。(印畫の複製を嚴禁す) -
●山中の鴉片畑(敦化縣)
梧松砬子[ウースンラーヅ]は敦化附近での最も高所で、こゝから展望した樺甸縣方面の森林地帶は、まるで一大樹海のやうに擴がつて居る。吉林とは滿洲語でチーリンの轉化で漢字に當てはめたとも言はれるが、また所謂吉林は美林の意味にも通ずる。此の林叢の間に無數の馬賊は棲息して鴉片の栽培をやる、寫眞の所々白く禿げたる平地はその鴉片畑だ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●店[デン]の指標(鏡泊湖の氷上にて)
廣寒宮の如き鏡泊湖の氷路を馬橇で疾走した旅人は所々氷上に圖の如き標識を發見する。而して此の標識の指す魚の頭の方向には必ず店[デン](宿場)を見出す。謂ふ迄もなく魚の口から垂れ下つた四つ五つの帽子の輪のやうな形のものは飮食店の招牌である。(印畫の複製を嚴禁す) -
●鏡泊湖氷上の店[デン](吉林省)
牡丹江の中流、江岸の著しくふくらんで丘陵に圍まれたる處、鏡泊湖の水をたゝへ、女眞民族の鏡の傳説をつたへる。冬期湖水は堅氷に閉され額穆寗安間の交通路として氷上を橫斷する人馬の來往尠くない。それがため凍結された湖上二千淸里位の地點に諸所旅行者の宿場が設けられる。埓をもつて圍んだ店[デン]の中には一日の行旅に疲れた人と馬とに暖い食物と席とが設けられて氷上のオアシスとなる。(印畫の複製を嚴禁す) -
●双岔河の材木市場(吉林省)
雪の吉林は木材の吉林にとつて至極便利が好い、それは冬期は森林の伐採期であり運搬期であるからだ、老爺嶺附近の山林で伐り出された木材は橇に積まれて双岔河の市場に搬出される。ここには諸方から集つた材木商が檢尺をして取引をする、而してこゝから更に松花江岸に運出されて、愈々吉林材木としての聲價を擧げる。(印畫の複製を嚴禁す) -
●冬の老爺嶺(吉林省)
北滿の寒さは二月に入つてそのクライマツクスに達する。凍てついた天地は照る日の光をも氷らせるかとばかり打てば空氣にも金鐵の響がある。此の酷寒に標高一千米突の老爺嶺越しはなか(なか)の業ではない。もの(もの)しき兵隊の護衛を先頭として密林の中を橇で越す光景は豪快である。夏秋の頃は山中馬賊の巢窟となつて旅人を惱す、吉敦鐵道豫定線中の最難險の場所の一つだ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●棺材の木挽(蛟河附近にて)
吉林から澤山の材木を産するがその中一番の良材は皆棺材として使用される。吉林の省城に行くと立派な棺材屋が見られる。謂ふ迄もなく支那人は凡て土葬の習慣で、從つて屍を納れる棺は非常に贅澤なものだ、而して子孫はみな金のかゝつた棺を求めることはやがて父祖に對する孝道だと信じて居る。支那では年々此の棺材のために夥しい良木巨材が浪費される。木挽の使用する鋸の型は支那在來の枠鋸で珍らしいものだ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●竹林(杭州)
西湖から約十二哩、五雲山の西に當つて竹林をもて圍まれた雲棲寺の境内は幽邃と云はうか閑寂と云はうか太古のやうな趣である。陽の光は竹の葉に碎かれて林間の光景は明暗の斑點に依つえ異樣にくま取られる一徑の甃を傳へて自然に導かるゝ所に雲棲寺の本堂がある、朴々と響き來る木魚の音は己に禪定三昧の醍醐味である。(印畫の複製を嚴禁す) -
●三潭印月
其の二(杭州) 湖上畫舫を浮べて三潭印月のあたりを徘徊すればそこに一小孤島がある。周圍僅かに三四町、淸末彭玉麟といふ人がこゝに水莊を營み島中に池をしつらへ蓮を植江樹影水色の間に二三の水亭を建てそれを連ぬるに曲折るの石橋を架したるところ頗る人工を極めたものだ南の夏は暑い、曉明荷風に浴し白露月影を宿す所凉味の津々たるものがある。(印畫の複製を嚴禁す) -
●玉泉躍魚(杭州)
西湖十八景中に淸漣寺の玉泉躍魚がある。淸漣寺は玉泉寺とも云ひ齊の建元年間(一千五百年前)曇超僧の開山で、その歷史も古く且つ由緒ある寺である。玉泉躍魚と云ふのは拾間に貳拾間位の長方形の池に無數の鯉が遊泳し、中には丈け三尺にも及ぶものがある。常に遊客が絶江ぬ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●三潭印月
其の一(杭州) 三潭印月は西湖十景中の随一とされて居る。湖中水上拾尺ばかりの石塔が三個鼎立して月光が潭に映ずれば影が三つに分れて寫るといふのでその名がある。蘇東坡が杭州の守護であつた時西湖の改飾に非常に努力した。詩人だけあつて自然の美に人工を加ふるにもなか(なか)凝つたもので、此の塔も四圍の風光に對して一層の景趣を添へて居る。(印畫の複製を嚴禁す) -
●西湖(杭州)
上海から汽車四時間半にして西湖々岸の杭州に着する。杭州は浙江の省城で江南の名都だ。西湖は周圍約五哩の湖ではあるが三面に峯巒を繞らし湖畔、島中到る處寺觀塔堂、名勝古蹟が多い。宋朝以來幾多の文人墨客が或は十景を賦し或は三十六名蹟を數へ或は七十二勝を擧げてその絶勝の美を謳歌して居る。寫眞は巨石山上から南に展開した西湖の一部を撮つたものである。(印畫の複製を嚴禁す) -
●保俶塔(杭州)
日本領事舘の裏手、小徑を辿れば寳石山又は甑山といふに續く、山巓に古雅なる一塔を見る、有名なる保俶塔である。 山麓に展開した杭州の街は夢から醒めた西湖を抱いて朝の光に輝く。神秘の塔は湖中の十景を指呼の間に招いて仰ぎ見る人々に千年の夢を語る。(印畫の複製を嚴禁す) -
●西湖の畫舫(杭州)
夢のやうに霞む湖上の春は畫舫の人をして先づ陶然たらしむ、西湖の景趣を賞せんには畫舫に據るべきである。詩に 孤山月落趁疏鐘 畫舫參差柳岸風 鶯夢初醒人未起 金鶴飛上五雲東といふのがある。夕に好く晨に好い、春の花、秋の月自然と人とは水鄕の生活に於て始めて渾然する。(印畫の複製を嚴禁す) -
●漁舟(南支)
水に生れ、水に育ち、水に戀し、水に死ぬ水上生活者の職業にも色々あるが漁師もその一つだ。板子一枚を唯一の身上として親もあれば子もあり孫もある一家族が、結婚すれば裕かなものは新船を購ふて分家し、貧しきものは舊船を求めて新夫婦の圓かな夢を水に浮かす。四ツ手網の獲物がたとへ市場にひさぐ程の量はなくとも一家の食膳を賑はすだけの獲ものにはならう。紐で船床にくゝりつけられた子供が河風と日光にさらされてそれも一人前に生長するのも不思議だ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●轎子(杭州)
轎に乗つた心持位クラシツクなものはない、洋車も自動車も便利であろうが轎上の愉悦は一寸味はひかねる。前後の舁天の肩から傳はるかすかな彈動は輕く乗り手の心を唆る。西湖の湖面を渡る初夏のそよ風は衣袂を吹いて肌に心地よい、轎上のブルジョアは往々華胥の國に入つて風光の美なるを忘れ勝ちだ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●湖畔の春(杭州西湖にて)
春の西湖ほど魅惑的な景色はない。山光水色ともに甦る春の生命に輝いて湖岸の新綠燃ゆるが如く、桃梨紅白を競ふあたり生垣越しに鶯語を聞く。夢見る山、眠れる蘇堤、蕩漾として僅かに動く小波の音は夢幻の世界へと人を導いて湖畔戀をさゝやく若人等を見る。(印畫の複製を嚴禁す) -
◆長安寺(朝鮮金剛山)
平康驛から三十五里の山中にある長安寺は山中四大寺廟で約千四百年前の創建である。其の後不幸文祿の兵火に羅り當時の伽藍は寺寳と共に烏有に歸して梵磬正に絕江哀れ狐狸の窟とならうとしたが、李朝世祖王の佛敎尊信に依つて歷代王室の歸依を得、今日の大雄寳殿を初め六殿七閣一門を建て、玆に又復僧俗渇仰の靈場となつたのである。(印畫の複製を嚴禁す) -
●水賣り(山海關にて)
お伽の馬としか思へない小兵の驢馬が、水桶を擔つてポクン(ポクン)と矮軀を運んで行く、日射しの長い夕陽は淡くその影を投げて繁激の街路に悠然たる畫繪を點綴する、鹽分を含むで惠まれぬ山海關の全住民はかくして城壁外より汲まれて來る水賣りやから、自巳等の生命の泉を幾何かの鳥目でもつて乞ひ受けるのである(印畫の複製を嚴禁す) -
◇搖籃(蒙古)
細い木の枝を長方形に組み有り合せの布で底を張り其中に砂を盛つて搖籃が作られる。嬰兒を其上に横臥させ布切や紐で轉がらぬやうに括りつけておく。其搖籃の一方には長い紐が付いてゐて母は仕事に餘念がないが泣くと其紐を引いて動かしあやす。大小便は皆その砂の中に染み込むで掃除は行き屆くといふより其世話もない。(印畫の複製を嚴禁す) -
○支那の葬式
其の一(風俗)業々しい葬式の行列は今支那一流の樂隊を先頭に無數の旗、聯、物差し、飾物と續いて熱閙の都大路を練つて行く。街の處々には柩を迎ふる參拜場が之れも物々しい裝飾をして急造される。物見高い都人等は葬儀に浪費される費用を計算して。孝行のパロメーターとする。風水の迷信と面子の尊重から來る妙な支那人氣質は、遂に葬式貧乏にまで彼等を陥れて行く。(印畫の複製を嚴禁す) -
○支那の葬式
其の二(風俗)支那人のお祭騷ぎは彼等の國民性である。國家や政治が怎ふならうとも、個人や一家の事には生命がけな騷ぎをやる。一回のお葬式に財産の大半を消耗して惜まず、三年喪に服して無爲徒食することを孝道と心得て居る、傳統に束縛され生命を失つた形式に即して、お互ひ社會生活上のデモンストレーシヨンをやる事を忘れぬ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●葬式の飾り物(北京所見)
支那の葬式行列中の花屋台である。正面には位牌のやうな嚴かな金文字が書かれて居る。何事にも事大主義で形式的な支那のドライな感情を最も露骨に現はして居るものは葬式である。死を取扱ふ支那人の態度は嚴かなる神靈に對する崇敬壯嚴といふよりは、寧ろ一種の劇的氣分で物質化して了ふ處に支那民族性の一面を窺ふことが出來る。(印畫の複製を嚴禁す) -
●山海關城内(京奉線)
干からびた空氣、水氣のない街衢、扁平な屋根、之は一見して北方支那の或る城内だといふことを想起する。城外に迫る蜿蜓たる山脈は、遠く西方から北京の背後を廻つて、塞外を境する萬里の長城の走る山の峯である。山麓淋しくも此の乾燥し切つた驛路は言ふまでもなく天下第一關の山海關の古城市だ。(印畫の複製を嚴禁す) -
◇蒙母
生活の一切を管掌する蒙古の婦女には男勝りな性格がある。然し母性としての彼女等は現代の文化婦人の及びもつかぬ特質がある事は否めない。あだかも赤裸で育くまれ行く嬰兒が自然淘汰に從ふ如く。(印畫の複製を嚴禁す) -
○支那藝者(風俗)
支那美人の産地は昔から江蘇省と極まつて居る。併し此のポートレートが果して江蘇かどうか聞かなかつた。多少オデコを想はする程の廣額に蔘々とした前髪の垂れたる處に近頃の扮飾的流行美を見せて居る。切れのある明眸、豐頬を包む曲線に、たしかに美人の要素はそなへては居るが、口元の少し卑しさを見せて居る處に此の藝者の稼業が忍ばれる。(印畫の複製を嚴禁す) -
◆海金剛(朝鮮金剛山)
山の金剛が高城附近で日本海に沒する所を海金剛と云ふ。海の金剛にも海獨特の景趣がある。續く白砂の長汀は漣を嘗め、風浪に洗はれた花崗岩が素肌を現はし、巖頭の松は翠の枝を風雅に垂れてゐる。小舟を浮べて松島、七星峰、海萬物相と廻る心地、海の幸は遺憾なく味ふ事が出來る。折柄の濃霧は松島も七星峰も消して淡い景として仕舞つた。(印畫の複製を嚴禁す) -
●宜昌港岸
宜昌港は長江を溯る一千哩、湖北の商埠として名高い。それのみならず此の地に至るまでの揚子江の水は平蕪千里に連なる大平原を貫流して悠々東に朝するの姿であるが、一度宜昌に入るや俄然景を變へ、近く遠く峰巒相連り水流漸く急にして三峽近しの感に打たれる。若し溯江の船、夜此の港岸を通るあれば水鄕の燈火參差として水面に映ずるところ夢の如くに美しい(印畫の複製を嚴禁す) -
●民船の假泊
黃陵廟の碑文に「壯哉黃牛、有大神力、輦聚巨石、百千萬億、云々」と即ち黃牛峽中の磊石で、河水ために壅激されて急流奔湍、船人は幾たびか肝を冷す處である。民船の圓屋内に重慶からの歸路、カメラーマン、サクライは此の早瀨を過ぎてホツト一息して居る處だ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●三游洞洞門蒼石流成乳
山下寒梅冷欲氷 天寒二子若求去 我欲居之亦不能 老泉 凍雨霏々半成雪 遊人履冷蒼苔滑 不辭携被巖底眠 洞口雪深夜無月 蘇軾(印畫の複製を嚴禁す) -
●雨中の天柱山
雨に煙る江山の景色は眞に空靈の秘境を現じて、怖しき動的怪奇の世界に人を魅惑する。南畫に描かれる雲霧は漂渺神韻の趣を傳へても、未だ峽中の雨を表現するに足らぬ。三峽の景は古來餘りに偉大にして詩にも繪にも未だ眞を傳へるものゝないのも無理はない。(印畫の複製を嚴禁す) -
●煙雨の中の馬牙山
天柱山と馬牙山の兩岸に聳立するところ宜昌峽門と稱す。雨に峽中の景を探るも何かの緣にや、強雨一過したる後の江山の風景は、一大神秘の魔境と變じて、天なく地なく江水なく、飛揚去來する雲霧の裏に、龍か虎かに似たる奇峰怪巒は走馬燈の如く送迎して行く眞に一大偉觀である。(印畫の複製を嚴禁す) -
●巫山峽中の信號場
巫山十二峰の山裾が深く江中に食ひ入つて、山稜の角度は或ものは三十度或ものは六十度、或ものは九十度に近い直角を現はして屏風のやうに壁立する。船は急湍に揖して一角の巉崖を送ればまた一角を迎へて幾十の曲折、枚擧に遑がない。從つて船航には極めて危險であるので、峽中の諸所に十字のポールを立てゝ上航下航の信號とする。(印畫の複製を嚴禁す) -
●洩灘の曳船
巴峽の間千三百支里、此の水路中灘と稱すべきの六十有餘、船子に取つては生命がけの難所である。洩灘はその最なるものとして奔流上より落下するところ、江心に一大渦紋を描いて物凄い。民船此の急湍を乘り越すには竹牽を長く曳く拉夫が少きも七八十、多きは三百人の人數で搖々の聲を發し、銅羅太鼓など打ち乍ら船頭と曳子が相應呼して激流を乘り切る光景は心肝を寒からしむるものがある。(印畫の複製を嚴禁す) -
●峽中の船着場
蜀江巴水此の附近到るところ戰國時代の史跡に富む夔州は白帝城の古趾と共に諸葛武亮の遺蹟を千載に傳ふるの地だ。遙かに風箱峽の山の姿が白雲の中に隱顯して、江山の景趣轉た人の心に悽愴の氣を起さしめる江岸の蜑女の茅屋は峽中來往の民船が一時假泊する處で、昔から船妓の竹板は有名なものである。白樂天の詩に瞿唐峽口水煙低 白帝城頭日向西 唱到竹枝聲咽處 寒猿暗鳥一時啼(印畫の複製を嚴禁す) -
●黃牛峽
雨の宜昌峽を過ぎて遙か彼方に夏雲の如き白色の險崖の連れるを望むは黃牛山である。山下稍々平地あり民船の牽繩地にして、竹條を製造販賣する家が多い。此の附近峽に灘あり、急流旋回して極めて船航に惱まされる。南岸に黃陵廟があつて孔明の碑を藏すといふが、無風流な駐屯軍が居つて拒むので見ることが出來なかつた。(印畫の複製を嚴禁す) -
●雨後の巫山峽
巫山峽は三峽中の最も雄なるもの、布袋口より上航縣城の境界に至る三十哩の間、高巒深壑相對するところに兩岸の巉崖は大江の水を著しく狹めて、物凄い程の自然の大パノラマを作る。 巫山十二峰は北岸に聳ゑ連なつて、卓落として天に迫り地を壓して揖航の船は哀れにも水上の蟻の如く小さい。巫山には昔夏禹神女から符書を授かつた傳説を殘して峽中の景色を一層神秘化させて居る。(印畫の複製を嚴禁す) -
●峽中の塔
古來巴蜀の民は三峡を往來することは全く生命がけであつた。千山万壑羊腸たる水路の險を乘切るには神佛の加護より外に賴むものがなかつた。山を迎ひ谿を送る幾千百の山角の諸所に燈台のやうに佛塔の建てられたるを見る。船人の言傳へによれば此の塔影の見ゆる限りに於ては水難がないとされて居る。(印畫の複製を嚴禁す) -
●風箱峽(一)
兩岸の斷崖壁の如く削立して一葦の江水僅かにその間を流れる。大江の水も此邊に至りて漸く三百呎の幅に狭まる。謂ゆる「上有萬仭山、下有千丈水」のところ、江山映帶して悽絶を極む。(印畫の複製を嚴禁す) -
●風箱峽(二)
仰き見る懸崖の上方、巖盤の裂れ目に不思議にも數個の木箱が置かれて居る。昔此峡を通ふ船子らは風を唯一の手賴りに上航したものであるが、風を起す鞴(右側が備)を風神に献けて便風を祈願したのだと傳へられる。木箱は即ち風箱で峡名の據つて起つた由來だとされる。(印畫の複製を嚴禁す) -
●プラントの紀念碑
三峡を溯つて蜀に通航することは天に上るに等しいと謂はれて居た。その水路を最初科學的に研究した人にリツトルがある。次いでその研究を完成した人はプラントといふ英人だ。紀念碑の建てられた丘陵は新灘の附近でプラントはこゝに居住して三峡研究に沒頭した地である。最初住民の迫害を受けたが、今は彼の偉大なる恩惠に依つて千噸以上の汽船が溯航するに至つた。(印畫の複製を嚴禁す) -
●白帝城
三峡到るところ三國時代の史蹟に富む。殊に白帝城は江山の風光と相俟つて蜀の劉備が陣沒の地として名高い。加ふるに諸葛亮が祁山の戰に敗れて、五丈原頭秋風寒きところ英魂ふたゝび歸らず、長江の水永しいに東海に流れて既に二千年を過きた。(印畫の複製を嚴禁す) -
●巫山縣の鹽積船
原始的の刳抜船を想はするような格構の船、丸屋根の型は如何にも支那氣分をそゝる。昔夔州附近の景色に憧れた詩人騒客の類は此の鹽積船でよく長江を通ふたものである。鹽の運搬だけに此の形の船を用ゐる理由は知らないが、自然の景趣と同化した三峡の船の形は特に旅人の心を惹く。(印畫の複製を嚴禁す) -
夔府附近の臭鹽磧
夔府近くの江中減水の時に砂の中から鹽が湧出する箇所があつて臭鹽磧稱する。此の鹽水を汲んで到るところ原始的な製鹽所がある。長江三千五百哩八省に跨かる住民は下流海に近かい省には昔し船運で鹽の供給も自由であつたが、上流三峡に入れば海鹽を得ることは容易でない。然るに斯ふした江中の天然鹽に依つて天は人の無くてならぬものを與ふるのである。(印畫の複製を嚴禁す) -
●三峽の水標
汽船が三峡を航行するに至つたのはプラントの偉勳であつた。三峡の水路が夏秋の候を以て增水期とされ春冬の候を以て減水期とされ共にその增減に依る航路の變化は夥たしい。之れを標識せしむる此のウオターマークは最高百九十呎の增水を標示して航行業者の安全を期するのである。(印畫の複製を嚴禁す) -
●洩灘の激流
三峡の水路百五十哩の間、激湍旋流となつて所謂灘と名つけられるもの六十餘個所、その中一番の難所は洩灘の早瀨だ。白龍の如く旋回する激流は白沫の大渦紋を描いて凄まじい光景である。此の洩灘を通る時船には竹索を長く附して三百人位の拉夫は陸上から懸命に此の危險を通り越すのである。(印畫の複製を嚴禁す) -
●雲陽縣城
雲陽縣は峽江を上下する船の必ず泊するところで、縣城の對岸に桓候の祠廟あり岳飛の書せる出師表を藏するので名高い。杜甫の詩に返照入江翻石壁、歸雲擁樹失山村の句がある、蓋し實景を叙したもの。前景の葡萄棚のやうな柱は出水に備ふるためのベランダで如何にも水鄕らしい景趣である。(印畫の複製を嚴禁す) -
●竹索(三峽)
遡江の船には必ず竹索を用ゐて曳船する。殊に灘を超ゆるには此れが唯一の生命の綱だ。竹の皮を細く組んだ數十丈の謂ゆる竹索は各船に備へつけられる。峽中ところ(どころ)に見出さるゝ江岸の街や部落には、高い櫓を設けて竹策を製造して居る光景は一種の奇觀だ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●香溪の情致(三峽)
諸葛亮が兵書を藏したと傳へらるゝ兵書峽を過ぎると、北岸に當つて碧玉の如く澄んだ水を長江に送る香溪がある。此溪谷に王昭君の生れた明妃村が淋しく眠る。漢宮三千の美妃の中から胡國に人身御供として遣られた昭君の遺蹟は後世詩人絶好の題目である。李拔の詩に「明妃鐘秀地、溪水尚流香、琵琶懷恨遠、靑塚結愁長」の句がある。(印畫の複製を嚴禁す) -
●歸州城(三峽)
歸州の城街は瓢蕈型の城壁を遶らして將軍山の傾斜面に繪の如く浮ぶ。而も下流人鮓甕(𠮟灘ともいふ)の激湍江岸に當つて灘聲常に雷雨の如く聞ゆ。此の附近に屈原の故地あり、離騒を譜して汨羅に投じて死んだ天下の偏屈漢は、斯ふした自然に育まれたのだ。彼に賢姉あり常に畏敬したところ、地名に秭歸縣の稱を傳ふる所以である。(印畫の複製を嚴禁す) -
●民船の假泊(三峽)
長江の上り下りは民船では半歳の月日を費す、櫛風沐雨、三峽六十三灘の激浪を板子一枚で乘り切る船人達の荒肝は夔州女の惚れ所だ。「白帝城頭日向西、唱到竹枝聲咽處」白居易の句は彼等がせめてもの慰めである。かくて民船は通航のところ(どころ)に假泊處を設けて一ト息づゝを容れて行く。而して彼等は大地を踏み土の香を吸ふ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●上石門の史跡(三峽)
蜀帝劉備孔明の諫を容れず、呉を伐つて遂に夷陵に敗れ、夜遁れて江水を遡る、敵將陸遜追ふこと甚だ急石門灘に於て遂に甲冑を燒き、僅かに險絶を徒渉して奔りて白帝城に入り、孤を孔明に托して逝つた史跡は豪宕なる峽中の風景に點綴する人生悲劇として千古に人の心を惹く。(印畫の複製を嚴禁す) -
●もの凄き崆舲峽(三峽)
山愈々迫り水いよ(いよ)深く、江流まさに極まるが如くに見江て、上流尚ほ數千哩を餘す長江は實に偉大なりといはねばならぬ。 激湍奔騰して水勢雷の響を傳ふるものは崆舲峽である。船一ト度峽中に入れば兩岸の山景走馬燈の如く廻展して、船停つて山走るの感がある。民船こゝに差しかゝれば危險を避くるがために積荷を卸して舟行するのが常だ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●鐘乳洞の家(三峽)
いづこよりか來にけん世にも珍らしきすね者もあるもの哉。登るにも途た江降るにも徑なき峽中斷崖の中腹、鍾乳洞の中に、自然の殿堂として住める一支那人を見る。猫額大の耕地には粟か何かゞ作られ、入口には鷄さへ飼はれたるも不思議である。地博物大の四百餘州に彼を容るゝ天地はこゝだけしか無いのか。(印畫の複製を嚴禁す) -
●馬牙山(三峽)
三峽の前衞をなすべき、宜昌峽をかこむ南北兩岸の群山削立の光景は、巫山十二峰にゆづらぬ大觀である天柱、馬牙の諸嶺屏風立に雲霄を凌いで、山脚を洗ふ江流は飽までも長く、飽までも激しくもの凄い。 三峽の自然は山と水とのハーモニイと云はんよりも山と水との反逆であり爭鬪である。そこには觀照の美を味ふ暇なくして、寧ろ悲壮と脅威とを感ずる。(印畫の複製を嚴禁す) -
●巫山直下を行く船
巫山十二峰の創造する大自然の美は、驚異と神秘の人間感情の一大連鎖によつて魅了される。朝霞、翠屏飛鳳、集仙、松巒、望霞、聚鶴、上昇、起雲、淨壇、發龍、聖泉の諸峰に依つて表現される一群の綜合藝術は、四季の推移、朝暮の變化、風雲の生動につれて巫山大峽の大舞臺に躍動するのだ。對岸の神女峰は古來から巫山の傳説に依つて名高い。(印畫の複製を嚴禁す) -
●絕壁を通ずる索道(三峽)
峽中江岸の住民は四隣の交通に唯一水路にのみ據ることは出来ない。絕壁の中腹に僅かに求めた索道の通路に近い隣村への用達位はする。 脚下數百尺の下長江の流れをのぞみ、峰の白雲に心をやり、偶には山猿の鳴聲に旅情をそゝられるのも索道通ひの旅のすさびだ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●長江の筏(楊子江《揚子江》口近くにて)
長江の水の大なるは今更ではない。その大水に浮ぶ筏の偉大なのには又全く吃驚せざるを得ない。筏は水上の部落である、幾重にか組立てられた丸太の浮島は或時は何百坪、或時は何千坪の面積に擴げられて、徍々數十戸の家屋がその上に建て並ぶ。犬猫を飼ひ鷄豚を養ひ、時に菜畝をさへ作られてそこには人生の喜悲哀樂を乘せて、長いものは半歳に渉つて流れ來る。(印畫の複製を嚴禁す) -
●漢口の街(湖北省)
漢口は漢水の長江に注ぐ三叉點に位置し、武昌、漢陽と相呼應して古來武漢の地は九省の會と稱せられた。今は粤漢鐵路に依つて水陸交通の衝路である。漢口は東洋の市俄古と云ひ、支那の大阪と稱せられるだけ、將來は支那中央部の資源を集めて大工業市たる地位にある。(印畫の複製を嚴禁す) -
●漢口埠頭(湖北省)
長江の有する二大市場に上海と漢口とがある。上海は海口に近いだけ自然の發達は純然たる貿易の商業區であるが、漢口は江口を溯る六百哩、長江の腹部を扼して工業地として自然の要件を供へて將來を囑望される。三十年前僅かに五千万兩の貿易額しかなかつた漢口は今や支那第三位の大貿易港となつた。(印畫の複製を嚴禁す) -
●重慶の碼頭(四川省)
山近き崖ふちに築かれた重慶の縣城は幾百級の石段に依つて漸く河岸の碼頭に達する。不自然にはみ出した城外の家屋は寸土尺地をも惜んで丸太の樓屋、アンペラの堀立小屋を建て連ねて、支那一流の穢雜、喧騒の中に開港場氣を漂はす。上り下りの民船は長江一筋を生命の稼ぎ場として、重慶を中心に物資の交易をするのだ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●水汲み(重慶)
重慶幾十万の住民は江水を唯一の飲料として、朝に夕に水を汲む光景は一種の奇觀である。或る支那側の調べに依ると毎日各城門から本街に搬入せらるゝ河水は十六万荷から二十万荷の多數に上ると稱される。それが毎朝毎夕天秤棒を擔つた幾万の挑水夫が崖上の城内から數百級の石階を上下して市民に生命の水を供給する。たしかに重慶の一名物である。(印畫の複製を嚴禁す) -
●喪服の重慶土人(重慶所見)
重慶邊の土民はその風貌の輪廓、種々なる習俗の上に於て一見して民族の相異を感ずる。彼等はたしかに漢人の血を容れては居るが多分に苗族の胤として現に原人の面影を偲ばしめるものがある。頭を覆ふ白布は西域から來た風俗でなければならない。天山を越江崑崙の絶嶮を征服した彼等の祖先は、今喪に服せる此等の子孫に何を語るであろう。(印畫の複製を嚴禁す) -
●窓から覗いた重慶(四川省)
家屋の周圍に空隙を存することは外敵を防衞するに甚だ不便である。大家族主義の住居は不自然な發達を遂げて側面から採光すべき窓をさへ有することを許さない程密集して建てこんだ家屋は、己むを得ず屋根をくり抜いて共同の天窻をつけるに至つた。日の光にさへ充分惠まれ得ざる重慶人は極端なる人爲的制度を四圍の環境に屈從して生活する。(印畫の複製を嚴禁す) -
●だんだらの水田(四川省)
なだらかな山の斜面にだんだらの弧線を描いた水田の光景は特殊なる美しさである。秋の夜の月を田每に映じて、空に雁金の音を聽くなど、いかにもクラシツクな情趣でなければならぬ。われ(われ)は景色を見るに平常餘りに側面か或は平面の美にのみ慣れて居る。然るに鳥瞰の美は之れから飛行機の發達に依つて著しい發達を見るであろう。(印畫の複製を嚴禁す) -
●貴州街道(四川省)
巫峡の嶮難を越江て四川に入れば愈々海遠く山深しの感を強くする。重慶から貴州への通路は舊い街道で如何にも昔のまゝの支那情緖を誘ひ起す。■(石に甫)いた花崗岩の石は何千年の塵に汚れ古びて夏の日にギラ(ギラ)と輝く。頭を布で捲つけた百姓は苗族の風俗を殘して豚の兒を旅の伴侶に尻打ちながら行くさま、さながらの原始の世界であらねばならぬ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●牌樓(成都街道所見)
重慶から成都への街道は必ず浮圖關を通過せねばならぬ。蜀道の要關で夜雨寺の樓門は古色蒼然として秋空に寂しく立つ。城門の前に見ゆる牌樓は支那到るところに見る官吏の頌德碑で、時に虐政の紀念であることもある。轎に乘つて關所の前に官吏の善政碑を讀むなどは宛然封建の世界のシーンだ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●天津市街(直隷省)
穢雜臭汚の支那街を對照して各國の租界は整然として我もの顔に展開する。而も支那人は何等之れを怪まざるのみならず、變轉極まりなき北京政局の表舞臺が、陰謀と暗鬪の無秩序からクーデターの行はるゝ毎に政客や軍閥の隱れ場所として天津租界は何時も舞臺裏の御用をつとめる。(印畫の複製を嚴禁す) -
●棉花船(白河河筋にて)
秋に入つて白河の河筋は忙がしくなる、年々天津から外に移輸出される棉花の數量は决して鮮くない。此處で集散する棉花は主に直隷、山東、河南ものであるが白河の各支流から民船で集まつて來る。獸毛、皮革に次ぐ重要輸出品だ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●天津碼頭(直隷省)
白河はその上流を沽河と稱し塞外獨石口の山中にその水源を有して居る。天津は河口から溯る三十七浬の處にありて、白河本流と南運河と滙流する三岔口の兩岸に跨がる商埠で、古來から北支那貿易の中心である。汽船の碇泊するところは紫竹林碼頭といつて各國租界に依りて圍まれた地點である。(印畫の複製を嚴禁す) -
●大沽の砲臺(白河々口)
白河々口の左側に見ゆる砲臺は淸朝時代の遺物である。阿片戰爭以來敵國外患に惱まされた北京朝廷は海洋防備のために築造したもので、德川が品川に臺場を築いたと同じ時代精神を物語るものである。ペトンで固めた白堊の圓錐狀の砲臺が平凡な河口の三角洲平原に築立つて居る景色は、アレも矢張り支那近世史の一頁であることを知らしめる。(印畫の複製を嚴禁す) -
●水準標(白河入口にて)
白河河口は年々泥砂のために滙淤してデルターのために淺くなる。右岸の舊砲臺所在地に潮水信號標があつて潮汐の滿干を標示して通船の便に供する。粗礴平板な一望の光景に樹つて居る澪標は如何にも海港の氣分を現はして居る。(印畫の複製を嚴禁す) -
●鹽の山
(一)(大沽附近)地博物大の支那の産業は見るからに無盡藏な豊かさを感じさせる。半ば泥にまぶれた灰色の鹽も人間の需要には事を缺がぬ。雨のない乾ける國の自然の惠みは幾月もかくして露天にさらされる。併し堆積した鹽の山も嘗むればつきる人間の消費力には一たまりもない(印畫の複製を嚴禁す) -
●鹽の山
(二)(大沽附近)大沽は白河の河口にある一港街で、天津往來の船舶は河水の關係でそこに沖待をする。潮汐の滿干が十二尺から三十尺の差がある、その潮水を利用して附近一帶には昔から大鹽田が作られ、北支西北蒙古方面に移出される天日鹽は、年々莫大なものである。露天に山積されたあの灰色の粗鹽は京奉線の支線で奥地へ運ばれる。(印畫の複製を嚴禁す) -
●村の嫁入り
小春日和の秋の光が、並樹の小枝にその影を碎いて靜かなる村の空氣は太古のやうに落ついて居る。いづこよりか時ならぬ音樂の聲!!近づくを見れば嫁入行列の一隊は、古式の輿を擔いでやつて來る。轎中の美人今日の黄道吉日を誰が家にか往かん。(印畫の複製を嚴禁す) -
●嫁入り
支那の音樂くらゐ底ぬけの業々しい音を立てるものはない、悲しいのやら嬉しいのやら判斷のつかない音律に、聖人は喜怒哀樂色に現はさずと敎へて居る。赤いお嫁さんは輿の中であの音にチヤームされ乍ら親の選んで呉れたお婿さんに擔がれて行くのだ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●花樓
花樓は商店の開業披露、賣出し、葬式の時の假祭殿その他祝祭等の場合の裝飾に用ゐらるゝもので、その規模の大げさな處に支那獨特のものがある。店頭裝飾とかいふ近頃流行の西洋式模倣もさることながら少し嶄新なところに支那の飾裝意匠の新機軸を應用したら如何なものだらう。(印畫の複製を嚴禁す) -
●明陵稜恩殿(南口明の十三陵)
昔陵域は松柏の森林で鬱蒼たるものがあつたことは文獻にも見江て居るが、今はその面影をとゞめない。寳域に至る手前に稜恩殿がある。風餐雨蝕いたづらに軒の邊りの破れるに委されて居るが、階段の兩側に取りつけられた大理石の玉欄と共に當年の壯麗を思はしめるものがある。(印畫の複製を嚴禁す) -
●明の牌樓(南口明の十三陵)
北京から二五哩、京綏鐵道の南口車站に下車して四里の山路を行けば明の十三陵に達する。明朝第三代永樂帝から十三代の帝陵は、遙かに西山の麓に眠る。廢殘の山河今は隴畝の間に擴がつて、美しき大理石の牌樓は五百年の風雨にさらされて昔を偲ばしむ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●牌樓の彫刻(南口明の十三陵)
牌樓の美は屋根の美である。しかも此の屋根を支ふる橫の楹と縱の柱が、かくも巧みにシンメトリックに組合はされなかつたらその美は如何に减殺されることだらう。併し又その柱を支ふる礎石の彫刻がなかつたら如何に平凡であつたか。その精巧なる構圖、繊細なる手法は、大理石面上今もなほ當時の鑿の香を殘して天工の藝術が生動して居る。(印畫の複製を嚴禁す) -
●明陵の石人(文臣)(南口明の十三陵)
陵域龍鳳門の前に四勳臣、四文臣、四武臣、十二の石人が石獸と草原に立ち列ぶ。明代の文臣がもの思はしげに笏を採つて立てるも淋しい。石人の裾模樣にして 野菊かな(印畫の複製を嚴禁す) -
●明陵の石人(武臣)(南口明の十三陵)秋風に
冑の鳴るや 十三陵(印畫の複製を嚴禁す) -
●明陵の石獣(駱駝)
(南口明の十三陵)陵域には二十四個の石獸、馬、麒麟、象、駱駝、獬豕、獅子等の各種類が左右一對宛立てるものと坐せるものとが陳ぶ。蓋し石人と共に帝德長く諸獸類にまで及んで永しへに墓陵を守護するの意であろう。草原の間に頽廢の山陵を背景をして此の偉大なる大理石の彫像を見るは一種の美觀である。(印畫の複製を嚴禁す) -
●明陵の石獣(麒麟)
(南口明の十三陵)二十四体の石獸の彫刻は各々傑れた作品として珍重するに足る。如何にも大膽な手法を用ゐて鑿の跡を不朽に傳へて居る。帝業が滅んで幾百歳、たとへ人生が短かくとも藝術の生命の長きを語るもの作者の名を傳へざるは惜しい。(印畫の複製を嚴禁す) -
●喇嘛説方碑亭(北京雍和宮にて)
黃甍碧欄の數ある北京の宮闕寺觀の中に、雍和宮はたしかに特種の建物の一つであろう。雍正皇帝が皇子であつた當時の邸宅をその後喇嘛の道場に寄進されたものである。その後庭に建てられた喇嘛説方碑は漢滿蒙藏の四体に書き分けたラマ禮讃の文字であるが、外藩懷柔の好紀念碑でもある。紅壁の碑黃甍と相映じて美事な建築だ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●雍和宮の銅爐(北京)
雍和宮前の銅製の大香爐は如何にも美しい工藝的作品だ。ラマ僧が西域の遺風を傳へて、黃い羽毛の鳥帽子をつけマント姿の道服で境内を逍遙ふ光景は北京でなければ見られない。毎年立春節分會に際しこゝで打鬼の祭事を行ふのが有名だ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●法服を着けたる喇嘛僧(北京雍和宮にて)
干からびた大陸には乾枯空靈の宗敎が生れる。而してその宗敎が生む藝術の怪奇變異を見よ、ラマの藝術は沙漠の幻影である。淸朝の御用宗敎として取り入れられたラマは、數百年の間にその潑溂たる生命が奪去られて、煤けた形骸のみが、おし着せの古びた法衣に包まれて殘された。今の北京にラマ僧を見るは一種の悲哀である。(印畫の複製を嚴禁す) -
●窯場の鳥瞰(直隸省)
磁州窯の起原は遠く宋代に溯る。窯場の存するところは磁州から五十支里を隔てた彭城鎭にあつて、全村すべて陶もので其のなりはひを立てゝ居る。古い傳統と原始的な稚拙の手法は繪高麗手として愛玩される。現今では大量的に格安品のみを造つて居るが、それでも年額三十萬元からの産出があるといふ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●彭城鎭の城門(直隸省)
磁州街道から平原のかなた模糊として黑煙に包まれて見ゆる町は彭城である。煙はいふ迄もなく城内二百餘の窯から上るもので、城門の入口に大甕が積み重ねられ、古い匣鉢が蜂の巢のやうに列べられて居るのも陶ものゝ街らしい氣分である。彭城鎭は古來工藝の邑として相當に富んで居た。(印畫の複製を嚴禁す) -
●黃土の地層(直隸省)
支那の國民色が黃色だと云はれるのは地上を覆ふ黃土のためだとさへ云はれる。その黃土は年々春先の頃旋風に從つて運ばれ、空中から降つて來て土壤を肥沃にする、俗に蒙古風と稱するものがそれだ。 その黃土はまた磁州燒の原料となつて使用せられる彭城の附近此の黃土層の自然の堆積を見るも古來燒物の發達した所以であらう。(印畫の複製を嚴禁す) -
●窯の内部(直隸省)
釉をかけられた土器は窯の火に直接觸れることを避けるため、耐火性の圓筒(匣鉢)に納められて窯の中に置かれる。燃ゆる焰は窯中をくまなく廻つて匣鉢を熱燒するときその中の土器はほどよく自然に燒成される 彭城の邑が幾百年の間使ひ古された此の匣鉢で、家と云はず、壁と云はず、塀と云はず廢物利用をされて居るのは一種の奇觀だ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●窯から出された磁州燒(直隷省)
窯中で焰の洗禮を施された器物は釉の加工と火の加减で奇しくも輝かしい陶器となつて窯の口から生れ出る。白泥のもの、黑泥のもの、色と釉の種類に依つて地肌の色がそれ(ぞれ)粉彩を施されそれに素朴にして古拙な繪模樣が畫かれる。磁州燒の畫工は十三四才の小輩が無邪氣に書きなぐる自由畫に生命があるとされて居る。(印畫の複製を嚴禁す) -
●磁州出の陶器(直隷省)
白地に黑繪唐草模樣を描くのは磁州窯の特色で左圖の瓶は宋代のものとして古色愛すべきものである。中央の壺は時代が少しく新しいものではあるが繪高麗手として形狀、紋樣ともに磁州の代表的なものである。右方の皿鉢は現代式の圖樣で小兒が無造作に蘭の花か何かを描いたところに面白味のあるものである。(印畫の複製を嚴禁す) -
●釉をかける陶師(直隸省)
素地の土器が窯に入れられる前に釉藥がかけられる磁州燒の釉には黃土を入れて燒くものがある、之は燒上ると黝色のものとなるが價の安い粗造品に多く用ゐられる。胡麻鹽頭の民衆美術家は椀形帽子をアミダに冠つて藥鉢の側にしやがんだ恰好は一種の藝術味を感じさせる。(印畫の複製を嚴禁す) -
●陶枕(直隸省)
陶師の庭に日和ぼつこをして居る此の四ッ匍ひの泥人形は如何にも思い邪なく快活にユウモリスクに並べられて居る。陶枕として支那人の愛用するものであるがマサカ支那の傳統的道德觀念から親はその子の成人後は、お前の膝枕で安樂に暮すのだといふ敎訓を象徵したものでもあるまい。(印畫の複製を嚴禁す) -
●鉢ものをつくる陶師(直隸省)
民衆藝術家としての陶師の職業は如何にも雅趣に富んだものである。柔かに練られたる土がロクロに載せられて一定の形に手ぎわよく造られて行く氣持は何とも云へぬ創造の快味だ。鉢に茶碗に皿に壺など色々の形は陶師の心と指先とロクロの回轉によつて自由に出來上る、之れを成杯と云って居る。(印畫の複製を嚴禁す) -
●成杯された鉢(直隸省)
處女の柔かさを持つた成杯されたる鉢ものは、干板に並べられて天日に乾かされる。古い匣鉢で築かれた壁側に秋の日は軟かい光を投げて、陶もの師の造つた鉢に圓い影を描く。自然の力に固められた素地の土器はかくして窯に運ばれて工藝家の一日は終る。(印畫の複製を嚴禁す) -
●居庸關の舊址(直隷省)
八達嶺の峻嶮が萬里長城を載せて北京の城西を壓する光景は、如何にも威嚇的である。張家口に通ずる國道に左右山壁の懸絶するところに居庸關がある。古來から西域路の關門で、佛敎文明の東漸の通路であっただけ、舊城壘は喇嘛の高塔を築いてその關塞となしたものである。今は上部の佛塔は取毀たれたゞ基部の洞門を殘存して居るに過ぎないが、當年の輪奐を現存する彫刻の美と共に想望せしむるものがある。(印畫の複製を嚴禁す) -
●六國語の銘文(居庸關)
居庸關栱道の内側四天王彫刻の壁面に六國語の銘文が雋刻されてある。當時元の隆々たる國力が亞細亞大陸を覆ひ東歐を風靡した勢威を窺ひ知るに足るものとして有名である。文字の種類は梵語、回鶻語、西藏語蒙古語、西夏語、漢語の六種である。(印畫の複製を嚴禁す) -
●アーチ内側の西藏佛(居庸關)
居庸關洞門内側の袴腰形穹窿部に無數の佛像が薄肉彫で象箝されたやうに浮出てゝ居る。その手法は下部兩側の四天王の精緻巧妙なる彫刻と相對して莊麗なる感を與へる。西藏式佛像として典型的なものである。(印畫の複製を嚴禁す) -
●摩利紅の脇像(居庸関)
三ツ目の妖怪鬢髮を朔立て、滿身に漲溢する力は、何物かを把握せる兩手の腕に纏つて、風發生動の趣がある。此の彫刻の上に殘れる元代の蒙古人の意氣性格を偲ばしむるに足る藝術品でなければならぬ。寫眞には見ゑないが摩利紅は即ち增長天と稱し梵名Virudhakaと云ひ、南方の守護神である。(印畫の複製を嚴禁す) -
●摩利受(廣目天)
(居庸關)西方の守護神にして梵名はVirupaksaといふ。形像の意匠には種々の異説があるけれども、廣目飛耳の面貌に僅かに微笑の影を宿して居る。經に據れば持物には戟を持し索繩を握るものもあるらしいが、寫眞は右手に蛇を把り左手は寳珠をつまんで居る。四天王はすべて惡鬼妖魔を踏まへて居るのが共通の型である。左右脇像の老人と鬼婆は鑿痕の優秀を示す力作である。(印畫の複製を嚴禁す) -
●洞門上の迦樓羅と龍女(居庸關)
迦樓羅[ガルダ]と龍女[ナーガ]は印度神話にある金翅鳥と蛇の化身像である。居庸關洞門の栱部正面に美事な浮彫になつて唐草文樣の中に織込まれて居る。中央ガルダの滑稽な姿態と左右ナーガの蛇頭蛇尾の女身像は原始神話の素朴を如何にも嫌味なき巧果を以て示して居る。(印畫の複製を嚴禁す) -
●摩利海の脇像(一)
(居庸關)恐怖の表現か苦痛の象徵か、護法美神の威力に褶伏した妖魔の相貌は凄絶を極めて居る。西域佛敎の藝術的意匠はその想像の奔放にして怪奇なる點に於て實に獨特のものがある。元が西藏の喇嘛を取り入れて蒙古魂で表現した此の居庸關の彫刻は、人間の原始的創造の力をそのまゝに傳へて居る。(印畫の複製を嚴禁す) -
●摩利淸(持國天)
(居庸關)四天王とは法門護持の四善神にして、謂ゆる多聞天(或は毘沙門天)持國天、增長天、廣目天を指すもので、東西南北の四方に在つて各破邪顯正を司る。摩利淸は西藏名にして東方の守護神、梵名をDhrta-rartraと稱し譯して持國天といふ。經典に依ればその形像の意匠に種々の異説があるけれども、「その身白色にして琵琶を持す」に當る。(印畫の複製を嚴禁す) -
●摩利海(二)
の脇像(居庸關)多聞天の随身隷屬の一土民、破邪調伏の威におのゝけるその姿のおかしさよ。忽必烈が支那四百餘州を從へ、漢民族を征服し遠く西歐の天地をも震駭した意志は、よく之の四天王の彫刻に殘されて居る。蒙人は先に喇嘛敎を借りて漢人を調伏し、滿人は後に同じく喇嘛敎を用ゐて蒙古を征服した。恐るべきは宗敎の力である。(印畫の複製を嚴禁す) -
●摩利海の脚を支ふる靑鬼(居庸關)
摩利海は和名所謂多聞天にして梵名Vaisravanaで毘沙門天とも稱して居る。北方の守護神で寫眞には見江ないが左に寳塔を捧げ右に金剛杖を持して居るのが普通の形である。その武装したる右脚を支へたる右腕に蛇をまきつけた鬼神の形相は如何にも物凄い。蛇を握れる手、顔面の筋肉の力に滿てる表現の樣子は傑出の作たるに恥ぢぬ。(印畫の複製を嚴禁す) -
北京の大通り
(北京)北京には北京城を中心に四ツの牌樓がある。此の牌樓の附近は市中最も殷賑を極める盛り場で、寫眞は東西牌樓の街衢、崇文門大街である。北京の二大市の一なる隆福寺の市場が此の横町の胡同に存在して居る。(印畫の複製を嚴禁す) -
●元宵節の燈籠(北京)
元旦は日の節會だ、元宵は夜の節會として支那では大切な行事だ。即ち元宵節は正月十五夜の滿月を祝福するための祭である。此の夜は外は淸明の月光に輝き内は各戸美しい燈籠に灯を入れ、街路は爆竹の音で賑ふ。女子供の悦ぶ樂しいお正月の一夜だ。寫眞は燈籠屋の店頭である。(印畫の複製を嚴禁す) -
●胡同の靜けさ(北京)
古びたる煉瓦の色、蟲ばめる壁土の剥落した光景の連續を、或る長さの線に取り入れて、大通りの雜閙から横にそれたところに胡同生活の靜けさがある。路に面した格子窓の特殊な作り、狹い黑塗りの門扉に讀書子の寓居を思はする家の構へも此の露路にあるのだ。傳統と慣習の固執からしばらく脱れた老人夫婦が孫たちのお相手をして居る有樣も横町らしいポーヅだ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●暮れの北京(北京)
暮の街には一種の情がたゞよふ。匇忙の中に春を迎ふる氣分が、北京の都大路、小路の空氣を浸して、ぞよめきの中を年の市にものとゝのふる人の心はゆたかだ。古くして靜かなる北京はかくしてまた一年馬齡を加へて老いて行く。(印畫の複製を嚴禁す) -
●爆竹を賣る店(北京)
支那のお正月のつきものとして無くてならないものは爆竹である。爆竹は何時の頃から始まつたか知らないが、最初竹の節を爆破したのが始まりで今は花火に變つた。年々支那全國で消費されるものが數百萬圓に上ると云はれる。中には仕掛花火で數千圓を投ずるものさへある。爆竹は景氣のよい樂天的な支那の國民性の一面を表徵して居る行事だ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●盧溝橋(北京郊外)
北京の西郊に盧溝河がある。こゝに長虹の如き石橋が架せられ、左右欄干の柱頭に一對づゝの獅子の彫刻が數百の美しい行列をなして居る。金時代の築造でマルコポーロの旅行記にも見江て居る有名な橋だ。滑稽な容子をした駱駝の隊商が■(石に甫)石を悠々と踏みならして橋を渡つて來るのも昔乍らの西域路らしい。(印畫の複製を嚴禁す) -
●蘆溝曉月(北京郊外)
蘆溝橋は淸の乾隆帝の選定された北京八景の一である。橋畔蘆溝曉月の碑のあるのは同帝の御筆とされて居る。御影石の大橋が廣茫たる河原に蛟龍の如く横はつて居る壯大の光景に、曉月の影淡く點綴されたところ、たしかに名所の一に恥ぢない情景である。(印畫の複製を嚴禁す) -
●天壇の圜丘(北京)
天壇は天子祭天の聖壇で、民の永樂時代に築造されたものであるが、天圓地方の原理に基き天に象つて設計された大理石の大圓丘である。毎歳冬至の日天子自ら此の圜丘に出御して祭天の禮を行ひ順風正雨の下に國礎の安穩を祈念した處である。その規模の壯大、氣宇の雄渾なる環境の淸濶と相映發して北京に於ける此種建築物の尤なるものだ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●白雲觀の繪提灯(北京)
北京の白雲觀は道敎の寺院として名高い。お正月の元宵節には寺觀の外壁を繪燈籠で飾られる。帝政時代西太后の寄進したものだ相だが、道敎の訓話を繪にして絹張の行燈に描いたものである。此の日は附近に競馬が催されて雜閙を極め、善男善女の出賽で賑ふ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●支那の乞丐(北京所見)
廢殘の餘生を襤褸に包んで、額に刻む深い皺は長い辛酸の生涯を物語る。併しまた己が生命の明日あるを思はぬ一所不住の乞丐生活には、常人の窺ひ知らぬ樂天の世界もある。乞食は生存の落伍者といふよりは寧ろ社會の寄生としての存在であらねばならぬ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●燕塵(北京附近)
泥と塵埃によごれた城壁の塼は、幾百年來の町の歴史を語るかに見江る。アーチ型にくり抜かれた城門の内壁は薄黑い陰影を漂はして城の内外を通ずる。廟の屋根から斜に射す日の光は、白塵を上げて通り過ぎる山羊の一群の上に黄色の暈を描いて場末らしい氣分を與へる。(印畫の複製を嚴禁す) -
●大和殿(北京)
大和殿は左右に文華、武英の兩殿を控へ、袁世凱が帝位を僣稱した當時は承運殿と名づけた。皇室の諸典禮に用ゐられた宮殿で昔は此處で萬壽を祝つたものである。大理石の階陛の前に寶鼎を排列し、一對の獅子像と日圭日嘉の各一座を配したフロントビユーは莊嚴そのものゝ美しさである。(印畫の複製を嚴禁す) -
●大和殿前庭の金水橋(北京)
紫禁城内の數多い宮殿の中にも特にその中心をなすものは大和殿である。彩壁と樓門に依つて圍まれた構内は高閣長廓のシンメトリツクな配置に美しい落付きを與へる。午門から俯瞰した前庭の金水河はゆるく曲線を描いて白石の五橋が巧緻を極めた手法で架せられる。黄瓦白欄朱楹藍梁の色彩の交錯を想像したばかりでも美の世界でなければならぬ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●昆明湖の駝脊橋(北京郊外)
萬壽山の美觀は山上の堂塔樓閣よりも山下の昆明湖の水にある。舟に棹して湖心に泛べば波間に倒蘸する山影は、水底更に新たなる萬壽山を出現する。昆明は西湖になぞらへて築造しただけ、その規模配置は西湖の景趣を傳へる。此の駝脊橋も南方式のもので白石の欄干石階共に美しい。(印畫の複製を嚴禁す) -
●斬刀(北京)
宮城午門の樓上にある北京の博物館に保存された斬刀は、淸朝時代に使用したものである。支那の刑法關係の研究をする好資料である。人頭の柄に彫りつけたのも不氣味であるが刀身の刄が斬り减らされて居るのも恐しい。(印畫の複製を嚴禁す) -
●房山の雲居寺(直隸房山)
房山の雲居寺は一名西域寺ともいふ。京漢線琉璃河驛に下車した旅人は驢馬で山路にさしかゝる。房山の麓に翠巒を負ふた一群の堂塔伽藍は美しいポーズを作つて、左右に建てられたる寶塔は自然と人工を一つのものとする。此寺の起源は北周の廢佛に遭遇した時石經を刻するために發願したもので支那佛敎史上の著名な遺跡である。(印畫の複製を嚴禁す) -
●雲居寺の石窟内部(直隸房山)
洞窟の内壁に塡め込んだ數百枚の石經は實に素晴しい書體で刻され支那金石の上からも有名なものである靜琬以來隋唐遼の各代に渉つて各僧知識が心血をそゝいで彫刻に從事し大乘經二百五十帙を完成し、次いで大藏經の過半をも造成したのが總て窟内に納められて居る。中央の石柱曼陀羅は洞の天床を支へるためのもので佛像の彫刻には特記すべき程のものはない。(印畫の複製を嚴禁す) -
●雲居寺の石窟内部(直隸房山)
雲居寺の石經は小西天の洞窟内に納められ、今はその散佚を恐れて入口を密封して居る。石經は一切經を雋したもので隋の靜琬法師に依つて着手され遼代にまで繼續された。當時廢佛に對して護法の精神に燃江た信仰の結晶として驚異に値する偉業であつた。(印畫の複製を嚴禁す) -
●峠越江(八達嶺附近)
額の生江上りを極度に廣くしたモンゴル型の平つたい鼻の奶々は、二人の愛兒を腹背にかゝ江て驢馬の脊に跨る。纏足の小鞋では石ころ路の八達嶺の山越江はなか(なか)至難だ。子供思ひの素朴な百姓の親爺は、一日の仕事を休んで愛するものゝのために、驢馬を御しながら峠を越して妻の里まで送つて行く。(印畫の複製を嚴禁す) -
●圓明園の廢墟(北京郊外)
北京の西郊に圓明園の廢墟がある。淸朝大祖《太祖》の舊居として由緒ある建物であつたが、一八六〇年英佛聯合軍が北京に侵入したとき兵火に燬かれて、いま尚累々たる斷礎をとゞめて居る。此の廢園が物語る民族の運命を今は尋ねる人もなく、徒らに物變り星移りて支那は依然として易性革命の歩みをつゞける。(印畫の複製を嚴禁す) -
●呉門橋(蘇州)
古昔姑蘇三千六百橋、呉門三百九十橋と記されたる水都蘇州の呉門橋である。此地の橋は悉く太皷型で當時の建築技術の特色を發揮して居る。その石造なるは雨が多いため、そのアーチ型なるは水路の交通頻繁なるためである。橋上と橋下との人がお互に諧譃を投げ合つて行くのも面白い。(印畫の複製を嚴禁す) -
●蘇州城内の鳥瞰(南支)
城壁を一區劃として集團生活に慣らされた支那人は城内に芋のやうにこすり合つて、隣接櫛比する穢雜渾沌の社會を形成するのを寧ろ誇りとして居るかに見江る。水鄕蘇州は古來一水一橋悉く詩情をそゝる都市として名高い。併も水の流れと人の身の上に或る運命觀でも有して居るかに見江る蘇州人は、此の黑瓦白壁の中に生れてはまた死んで行くことだろう。兎角人間は此の密集された都會の光景を鳥瞰する每に、相互ひに自分の墓場を築いて居るやうな感じを懷く、舊い支那の城内に對して其感が最も深い。(印畫の複製を嚴禁す) -
●蘇州の街(南支)
舊都蘇州の街の午後、陽は斜に屋根越しに照して、天から街頭に吊下つた彼のもの(もの)しい旗や金看板は行人をして一種の威壓をさへ感ぜしめる。集團生活の効果を出來るだけ大きくするために、路巾を成るべく狭くした此の店屋街の光景は、正に近代のアパートメントストア式を實行したものである。舗石の街上に木履の音を聞き水桶を擔ふものを見るのも水郷らしい。店先にカビの臭ひのしさうな靑帙の經史百家を並べて居る本屋をのぞく時、支那の文化はかふした處に轉がつて居るやうな氣がする。(印畫の複製を嚴禁す) -
●楓橋(蘇州)
楓橋は蘇州城外楓橋鎭に在る。此の楓橋から約一町ばかりの處に寒山寺がある。虹形に半圓を描いて架けられた橋脚から遙かに古塔を望んだポーズは確かに古典的な景色だ、この塔呉王闔閭の墳塋で虎邱と呼ぶ有名なものである。橋下の船は昔ながらの客船で棹さす人も櫓を操る人も共に女であるのも面白い、往古呉越の客を迎へて霜の夜の鐘に曉を嘆いた遊子の情も思ひやられる。(印畫の複製をお斷りします) -
●水都蘇州(南支)
姑蘇時代より星霜を經ること二千五百年、杭州と並稱された古都蘇州の市街は、陸街よりも水路を主として建設された處に特色を有する。城内の水路四通八達し貨物の運送は元より一家の移轉冠婚葬祭その他百般の交通はすべて水路に據る、蘇州は水から見る方が表で陸から見るのが裏だ。過ぐる同治年間長髮賊の戰禍に一時荒廢を告げたが今は稍々その面目を舊に復して居る。(印畫の複製をお斷りします) -
●瑞光寺塔(蘇州)
蘇州城内、盤門を入り望塔橋を渡れば瑞光寺の塔がある。曠寞たる畑の中に屹然としてその廢頽した淋しき孤影を投げてゐる。呉の赤烏十年の建造にかゝる、幾多の傳説を有し蘇州七名塔の一である。(印畫の複製を嚴禁す) -
●水ぐわい賣り(南支所見)
水氣の多い南の夏は、惱ましいような暑さだ。三伏の苦熱に喘ぐものが氷の小旗に刺戟されてゆくような情景を、南支では街角、ものゝ小䕃の水ぐわい賣りに見出す。黑褐色の皮を器用にむいで、甘味しさうな白い果を串團子のように綠葉の上に並べて居る。その白玉のよなう實に嚙みつくと、口一杯に喞むうす甘い果汁は苦惱の渴を快く醫してくれる。(印畫の複製を嚴禁す) -
●麥稈細工をする少女(蘇州所見)
蘇州は水の名所で而かも美人の産地だ。蘇州に遊ぶものゝ誰でもが、土産ものとして買求むる麥稈細工の日除團扇や手提籠など、みな蘇州女の手内職の産物である。今の年若い女たちには足の小さいのなどは尊ばれない。天足のまゝ縞ズボンに袖口の廣い格子縞の上衣といつた處に意氣と張りとを見せ、生活難のおし寄せるところに女と雖も手工位は厭はない。こゝに支那の新しい世相の現れを見る。(印畫の複製を嚴禁す) -
●蘇州あたりの運河(南支)
隋の煬帝が國を傾けて土木したといふ國家的經濟の一大動脈として南北を貫く大運河は、大國的な澎湃たる計劃と、信仰的な根氣とが産んだ世界的の大工事である。 南北地上の變相の中を水で描くこの驚嘆すべき人工のラインは生々流轉一千三百哩、時に江上帆影疎らに石獅の鑿の痕まろらかに江心に語るあたり、索莫たる土の連續に動的の點景を與へる。(印畫の複製をお斷りします) -
●麻晒し(杭州)
杭州名物に麻がある。あの水鄕の街に機織の梭の音を聞いたのはその麻を聯想するであらう。白練の布を靑嵐吹く淸流に晒す内地の趣きはないが、皓蕩の夏の湖水に麻晒しの勞役も樂しい一つの仕事であらう。(印畫の複製を嚴禁す) -
●遊覽道路
大連中央公園の遊覽道路はドン山の中腹を切り開いて、東より西へと頗る景勝の地を占めて居る。春日の池の上を走る線から南山の側候所に上る緩やかなスロープは、その裾に本願寺の伽籃を見せて居る。切り崩した赭土の斷面を廻るカーブが快適な半圓を描いて寫眞の上にある諧調[リズム]を與へる。(印畫の複製を嚴禁す) -
●港橋(大連市)
大連港は一年五百萬噸以上の貨物を呑吐する。奥地から輸送される無限の産物は日々に埠頭構内幾十條の線路に依つて搬入されて來る。その線路を超へて町と埠頭を結びつけるものは此の跨線橋だ。特産取引所の建物を前景として山縣通のメインストリートは兩側に胡籐の街路樹を茂らして、一直線に大連市の心臟大廣場へとつゞく處に港橋の價値が存する。(印畫の複製を嚴禁す) -
●常盤橋
中央ビルデングを西側のコーナーとして錯綜する電車が四方から集まつては散ずる日支人の渦巻に依つて雜閙を極めるのが大連常盤橋畔の光景である。此の附近に中央市場があつて大連市民日用の魚菜類、食料品が調へられる。自働式開閉の電車の出入口に自然の調節をして居るのも珍らしい。(印畫の複製を嚴禁す) -
●小平島
サツフオの笛の音をきく南歐の島ならで、小平島は旅大八景の一つだ。巖角の上に坐して潮ざ江遠く眺めやれば、波光帆影の間に人魚の傳説など思ひやらる。景色は傳説を生み、傳説は景色を美化する。古來小平島は幾多の傳説に富む。(印畫の複製を嚴禁す) -
●老虎灘街道の文化住宅
嶺前屯の盆地が海光の一閃を彼方にとゞめて、幾階段かに山のスロープを拓り開いたところに文化村の一群が巣食ふ。派出な屋根瓦を靑に赤に彩色して高低參差する住居の藝術化が此の區域の誇りらしい。(印畫の複製を嚴禁す) -
●大連醫院
最近大連名所の一つに満鐵大連醫院の新建物が加へられた。南山を背負ふて王城の如くそゝり建つものはそれである。鐵筋コンクリート造煉瓦積近世ロマネスク式の建築樣式は宏壯なる雄姿を現はして大連市街を壓して居る。總工費五百六十餘万圓を投じ外觀内容の整備した東洋一の文化施設と謂はれる。(印畫の複製を嚴禁す) -
●石■(石の右に曹)
屯(一)翡翠を溶したやうな初夏の海原が、太陽の光に輝いて、白乳の色にぼかされた半圓の空と、地平線上に接吻する。岩が根をつゝむ羽二重のやうな柔かな海の小皺が蕩漾として風なきにゆらいでレンズを通して撮影子を魅惑する。(印畫の複製を嚴禁す) -
●忠靈塔
中央公園の遊覽道路から大連市街を鳥瞰した景色はたしかに壯大な感じを與へる。山麓に聳江たる忠靈塔を全景にして海灣を抱擁した市街の展開は高低參差たる群落の美を示して屋根の恰好から觀た大連市民のあるアイデアを表現する。惜しむらくは尖頭やドウムのない大連の市街は頗る平凡で且つドライだ。(印畫の複製を嚴禁す) -
●石■(石の右に曹)
屯(二)老虎灘の丘にしづ心なく散る惜春の頃には、石■(石の右に曹)屯の村は已に夏の海にかこまれて磯の香は高い。海に匐ひえでたる千々岩の肌がさしひく潮に洗はれて波の靑さに染めかぬる風ぜいも好い。一竿の垂綸に水中の生命の戯れを日ねもす樂しむのも之れからの光景である。(印畫の複製を嚴禁す) -
●王家屯の苦力部落
昆布巻のやうに蒲團を引括つた一介の荷物を肩に、デツキパツセンヂヤーとして大連埠頭に上陸した山東苦力は、春から夏へ半歳の間働きためた僅かな金を元手に、彼等の屋房は建てられる。南向きの陽當りの良い山陰に一二軒建てられたかと思ふ間に何時かこんな一部落が出來上る。茲にも支那人の植民力の偉大さを見る事が出來る。(印畫の複製を嚴禁す)